土佐藩では、関ヶ原の戦い後に、山内家と共に土佐に入国してきた上士と、主に長宗我部家の家来であった郷士(ごうし)とを住む場所さえも違えちょった。高知城を中心とする郭中(かちゅう)には上士が住み、そこには龍馬らあの郷士は住むことはできざった。「諸侍掟」という細かな決まりごとが定められて、郷士の中には裕福な家もあったけんど、絹の衣服の着用や履きものなどにも厳しい制限があった。
町人はというと「市町定」という決めごとがあり、町人は佳作、衣服、飲食等にまで制限が加えられ、分相応に家業に精を出し、金持ちでも遊んで暮したらいかん、利益を独占したらいかんことなどが、とりきめられちょった。 |
龍馬と背比べ

龍馬の身長は約173cm。
土佐の皿鉢(さわち)の大皿

高知城下町名今昔
旧 本丁筋

江戸時代は「上町本町」といわれていたが、明治時代に入り「高知街本町」との混同をさけるため、本町(丁)筋と改められた。城下町がつくられたとき、最初にできた基本となる道路で、他国往来の順路でもあり、西端を南に折れたところには、城下三番所の一つの思案橋番所があった。通りには才谷屋や坂本龍馬生家などがあった。 |
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