建久4年(1193年)、富士の裾野で兄弟が父の仇、工藤祐経を討った後、叔父の宇佐美禅師は、その遺骨を携え此の地に来て庵を結び、兄弟の菩提を弔ったのが、この寺の始まりと伝えられる。 なお、この討入りの時、兄弟は暗夜であったため傘を燃やして松明としたので、仇討ちの日に当る5月28日には、この故事にならい境内で傘を焼いて兄弟の霊を慰める傘焼きまつりが行われるが、類例の少ない祭であるので有名である。 境内には十郎・五郎、父祐信・母満江御前の供養塔や十郎が大磯の虎御前をしのび、腰を掛け笛を鳴らした忍石、坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄附の兄弟の記念碑等のほか、各種ゆかりの品がある。 なお、4人の墓の建つ墳丘は、曽我城の土塁跡である。 |
昭和12年(1637年)2月7日、高浜虚子は武蔵野探勝会の吟行で曽我梅林へ。 |
家あればかならず梅がある。山を仰ぐも海を見下ろすもたゞ梅である。梅の剪枝を水に浸した農家があり、芹の水が道端をほとばしつてゐるところもあつた。曽我兄弟の母満江が庵室を結んだといふ城前寺はその道ばたから石段をのぼつたところにあつた。
『武蔵野探勝』(曾我の里) |
二月七日。武蔵野探勝会。相州下曽我梅林。加来金升邸。 客ありて梅の軒端の茶の煙 山かけて梅の林や曽我の里 宗我神社曽我村役場梅の中 畑中に老梅ゆゝし曽我の里 |
昭和39年(1964年)7月15日、星野立子は城前寺で虚子の盆供養。 |
城前寺という浄土宗のお寺がすぐ近くにある 父の盆供養 |
端居してこの荘の夜を想像す 客をもてなす河原なでしこダリヤなど |