第二次伊藤博内閣のもと、外務大臣として日本の外交を支えた陸奥宗光でしたが、激務から持病の結核が再発し、明治27年(1894年)には、ここ大磯の地で療養生活を送りました。 ここ大磯で執筆した『蹇蹇録』は日清戦争の開始から日清講和条約批准までの外交の過程を叙述した回想録で、陸奥の思想をよく伝えています。外務省の機密文書を引用しているため長く非公開されていましたが、昭和4年(1929年)に初めて公刊されました。 政界を引退した陸奥は大磯やハワイで療養生活を送りましたが、明治30年(1897年)に他界しました。伊藤博文が大磯の滄浪閣に本籍を移した年のことでした。 |
【沿革と概要】 ■明治29年(1896年)、陸奥宗光別邸として建築。 ■明治30年(1897年)、古河家が陸奥の死に伴い取得。 ■大正13年(1924年)、関東大震災で大破。以前の建物は足尾銅山の柏木平に移設。 ■昭和5年(1930年)、古河虎之助が別邸として再築。 ■平成30年(2018年)8月まで古川電気工業株式会社の迎賓館と使用。 |
明治維新の跡、築地の大隈邸には伊藤博文ら多くの元志士が集い論議を交わしていました。百ワットと称された大隈の明るく、力強い性格は、当時の日本を初めて照らしたアーク灯のように派閥や藩閥を超えて多くの人々を引きつけました。 大隈重信が大磯に別荘を構えたのは明治30年(1897年)のことでした。大隈は大磯でもたびたび宴会を開きました。16畳の富士の間と隣の10畳をつないだ大宴会だったようです。 中庭を挟んだ東の棟は神代(ママ)(ママ)の間と呼ばれ、大隈の書斎として使われていました。神代の間に使われている神代杉は、杉が腐らず半化石化した貴重なものです。 大隈別邸は、明治34年(1901年)に大隈の手を離れ、古河家が購入して現在まで引き継がれてきました。 富士の間や神代の間がある南側は、おおむね創建当時のまま保存されています。 |
【沿革と概要】 ■明治30年(1897年)、大隈重信が別荘として購入。 ■明治34年(1901年)頃に古河家が取得。 |