海蔵寺の開山は、安叟宗楞(あんそうそうりょう)禅師で、嘉吉元年(1441年)の創建という。 禅師は大森氏の出身であったので、大森氏時代の寺門の繁栄は当然のことだが、後北条氏の時代になっても手厚い庇護をうけていた。開創後、百数十年を経た当時の中興開基となったのは堀左衛門督(しょう)秀政である。 堀秀政は、天文22年(1553年)美濃の生まれ。11歳で織田信長に仕え、天正9年29歳のとき、長浜城主を任されるほど、信長の信任があつかった。翌10年、信長が本能寺で明智光秀に討たれた後は秀吉の麾下となり、この年越前の北の庄(現福井市)に移封されて、18万余石の大名にのし上っている。天正18年(1590年)太閤の小田原攻めに参戦して、包囲作戦の最中疫病にかかりこの地で38歳で陣没した。もし秀政が健在で、秀吉の意の如く関東に配属されていたら、歴史は大きく変わったと思われる人材であった。秀政の墓碑は、小田原城も相模湾も見渡せるこの地に建ち、殉死したと思われる家臣大野左京らの墓に囲まれて、安山岩質の形のよい宝篋印塔が、滅びゆくものの美しさと寂しさをみせている。 堀秀政の戒名 海蔵寺殿廣岳道哲大居士 |