石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、 天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原北茶氏の本拠小田原城を水陸合わせて約22万の大軍を率いて包囲した小田原合戦のとき、その本営として総石垣の城を築いて 石垣山と呼ばれるようになりました。 この域を一夜にして築いたように見せかけたという伝承から石垣山一夜域ともいわれています。 ここ二の丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、中心部分、北へ長方形に張出した部分及び東の腰曲輪部分、これらの3つの部分からなっています。「新編相模国風土記稿」では二の丸として紹介されているが 伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬流い場」と呼ばれた湧水もあったようです。井戸曲輪に行く道の直ぐ横には「櫓台跡」が残っており、他の曲輪にも「櫓台跡」が 確認されています。 小田原合戦の当初に豊臣秀吉の本営の置かれた箱根湯本の早雲寺には、一夜城で使用した神奈川県指定重曇文化財の 「梵鐘」が残っており、どこかの櫓で使用されたと思われますが、現時点では、詳細は不明です。 |
肥前名護屋城の普請は、石田正澄の書状などから黒田長政(一説には黒田官兵衞)・小西行長・加藤清正などが命じられたとされています。しかし、この3人は小田原合戦には参陣しておらず、黒田官兵衞のみ参陣を確認することができます。 石垣山城は誰が縄張りしたのでしょうか?石垣山城の謎の一つです。 |
秀吉はすでに天下を統一したが、なお独立勢力として小田原北条氏が残っていた。秀吉は力攻めを避けて持久戦にもちこみ、その本営のために天守閣までそなえた城郭をつくった。つくったのは、石垣山の上である。 石垣山、一名笠懸山、標高二四一メートル、頂上にのぼると、小田原城がよくみえる。
『街道をゆく』(甲州街道) |
小田原北条氏を攻めることを決意した関白豊臣秀吉は、天正18年(1590年)3月1日に京都を発し、4月3・4日には小田原城の攻囲を開始しました。そして、4月6日には早雲寺(箱根町)を本陣とし、その日のうちに笠懸山(石垣山)に登って小田原城を眺望しました。周囲9kmにわたり、壮大な堀と土塁で周囲を囲んだ小田原城を力攻めにするのは難しいと判断した秀吉は、長期戦の構えでこの場所に城を築城することを決めました。 普請は急ピッチで進み、秀吉は5月14日には石垣ができあがって広間・天守などの作事に差し掛かる段階にあったことを、妻の北政所(ねね)に手紙で知らせています。6月9・10日には奥州の雄、伊達政宗が普請中の石垣山で秀吉に伺候します。その時政宗は、前日には無かった白壁を「紙を貼ったもの」と見破り、秀吉を初めとする諸将に賞賛されています(「木村宇右衛門覚書」)。 そして6月26日、秀吉は石垣山に本陣を移しました。これを期に、秀吉は小田原城へと一斉に鉄砲を撃ちかけさせ、小田原北条氏方を脅かしました。このような秀吉の行動や政宗と白壁の逸話が、「小田原城を遮る大樹を悉く斬る。小田原城中より是を見て、笠懸山に附城一夜に成就せるに驚く」(『大三川志』)や「面向きの松の枝ども切りすかしければ、小田原勢肝をつぶし、こはかの関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる館出来けるぞや」(『北条記』)との、後の一夜城伝説を生んだのです。 一夜城伝説の真意はともかく、人員を大量動員した築城を可能とする秀吉の権威と財力が、小田原北条氏が降伏する決定打となったのです。 |
――大領域をおさめる城下は海港をもつべし。 というのが、秀吉の国土経営の新思想であったかと思える。それまでの勢力圏の首邑というのは海から離れている。たとえば遠い時代には奥州藤原氏の平泉も海から離れているし、戦国期でも周防大内氏の山口、越後上杉氏の春日山、土佐長宗我部氏の岡豊など、まるで海を怖れるようにして(事実海からの侵入を怖れたらしい)わざと内陸に府都を設けた。京都も、そうである。
『街道をゆく』(甲州街道) |
平成29年(2017年)4月6日、「城の日」に石垣山城は「続日本100名城」に選定された。 |