明治43年(1910年)5月7日、河東碧梧桐は鹿児島で桜島のことを書いている。 |
地図で見ると、桜島は鹿児島湾の一小島である。ほぼ円形をした何等の奇趣もなさそうな離れ島である。が、汽車で鹿児島に着くと、富士に似て頂きの形の更に奇な大きな山を仰ぎ見る。山の傾斜面がさも巨人の大手を拡げたように左右に流れておる。海中に立つ山とはどうしても思われぬ。陸続きの噴火山がここに突起して小さな狭い海を抱え込んでおると見る方が感じに適切である。それが桜島であると指示された時大方そうであろうと気付いてはいたものの、地図を見た時の心持と余りに懸隔のあるのを我ながら疑わざるを得なかった。 海を抱く山山を覆ふ雲涼し |
肩上のありし日のごと鹿児島の港の石を夏の日に踏む 炎日のもとに再び火となりて人ちかづけず熔岩の島
『霧島の歌』(其一)
嬉しくも身をば矢として達したる桜島かと白き船出づ 船つきぬ島に上るを許さまし迦具土の神おなじ身なれば
『霧島の歌』(其二) |
和銅年間(1280余年前)の創建設と伝えられる。島津家久公によりにより、旧社地西桜島村赤水宮坂に鎮座。その後、二十七代の国主島津斉興(なりおき)公家臣吉田氏の尽力により、正一位の神階をわり明治6年6月、県社となる。 |
土俗口碑に依れば月読神社の正祀である月読命出生の地は桜島であると云われる。此のお社は、古来西桜島村(現桜島町)赤水字宮坂に鎮座して居たのであるが、大正3年(1914年)1月12日の大爆発の際社殿及び敷地の悉くが熔岩に埋没したので、御神体を一時仝村武に遷し、更に昭和14年11月此の地に社殿の新築に着手し、翌昭和15年8月4日遷座したのである。 |
昭和3年(1928年)10月10日、高浜虚子は桜島に遊ぶ。 |
熔岩の上を跣足(はだし)の島男 昭和三年十月十日 薩摩に赴き、桜島に遊ぶ。 |
昭和28年(1953年)、高野素十は桜島を訪れている。 |
桜島煙を上げて春隣 初蝶のラバにつき当りつき当り 初蝶に熔岩の原鬼鬼し
『芹』 |
十一月八日 鹿児島へ向ひ桜島に渡り袴腰熔岩の虚子 句碑に遊び、鴨池の錦港旅館で句会 東条樹々邸泊り かくすべうなき旅疲れ蜜柑むく 末枯るゝ熔岩原外れてある祠 熔岩原にももみぢするものあまたあり
『句日記』(第二巻) |