2019年〜鹿児島市〜
私学校跡〜西南戦争の銃弾跡〜

鹿児島市城山町の国道10号沿いに鹿児島医療センターがある。
西郷南州翁 私学校跡
「おはんら何たることをしでかしたか」
―西南戦争は、私学校生徒の暴走で始まった―
遣韓使節をめぐる政争に敗れたことで、辞表を出して帰郷した西郷隆盛は、一介の農夫として静かに暮らそうとしました。ところが西郷を慕って続々と帰郷した若者たちがこれを許さず西郷は求められるままに、私学校を設立しました。
明治7年(1874年)6月、鶴丸城の厩跡に篠原国幹が監督する銃隊学校と村田新八が監督する砲隊学校、これを本校として城下に12、県下に136もの分校がうまれたのです。また、幼年学校として西郷以下の賞典禄(戊辰戦争の賜金)を運営費に賞典学校もつくられました。私学校には、はじめ教師としてオランダ人やイギリス人を招き、生徒をヨーロッパに留学させる計画もありました。私学校の費用はすべて県費でまかなわれました。私学校は年々巨大化し、反政府の気運を高まらせ、ついに過激生徒が暴走。政府火薬庫の襲撃によって西南戦をを引き起こし、私学校はわずか4年でその歴史を閉じたのです。石垣には激戦のあとを物語る銃弾の跡があります。
鹿児島市

西南戦争の銃弾跡
明治10年(1877年)5月から、鹿児島の争奪をめぐり、政府軍と西郷軍の間に激しい攻防が繰り広げられました。特に、この私学校周辺では同年9月に、主として政府軍によって放たれた銃弾の跡が今でも生々しく残っています。
銃弾跡は右側の石垣にあります→
明治十年戦役弾痕

昭和33年(1958年)2月18日、水原秋桜子は私学校跡を訪れ、石垣の弾痕を見ている。
霧島神宮駅を発する頃より空晴れ、鹿
児島に到れば片雲なし。私学校跡にて
石垣は弾痕深し母子草
『蓬壺』
私学校跡石塀

西郷南州翁設立私學校跡

この地は、かつて島津藩の旧厩跡で、明治7年(1874年)に私学校が設立され、明治10年の西南戦争により廃止されるまで、西郷隆盛らによって私学校生の教育が行われたところである。
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