嘉永4年(1851年)薩摩藩主となった島津斉彬は、日本が西欧列強から植民地化されるのではないかという危惧していました。これを防ぐため、西欧の科学技術を導入し「集成館事業」という近代化事業を推進しました。その中核となったのが、日本初の洋式工場群「集成館」でした。集成館で最初に築かれたのが、鉄製の大砲鋳造に必要な反射炉でした。嘉永5年に1号炉の建設が始まりましたが、耐火レンガが崩れるなどして失敗。続いて建設された2号炉は安政4年(1857年)に完成し、鉄製砲の鋳造に成功しました。そして反射炉の周囲に溶鉱炉やガラス工場など様々な工場が整備されました。
斉彬が築いた集成館は、文久3年(1863年)の薩英戦争でイギリス艦隊の攻撃を受け焼失しました。その後再建されましたが、それも明治10年(1877年)に大半が焼失してしまいました。今は反射炉2号炉の基礎部分などが遺り、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産となっています。
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錫 門

錫門(すずもん)は江戸時代に正門として用いられたもので、屋根は錫の板でふかれています。江戸時代はじめに藩内で錫鉱山が発見され、以後、錫は鹿児島の特産品として知られるようになりました。この錫門は、江戸時代には薩摩藩の当主とその世継ぎしか通れませんでした。
島津斉彬[渡辺謙]が薩摩と江戸を行き来するシーンで錫門が用いられました。斉彬が薩摩に到着した時のほか、斉彬が江戸に向かって出立する際、家臣の赤山靭負[沢村一樹]が途中まで同行する場面が撮影されています。
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獅子乗大石灯籠

29代島津忠義が明治17年(1884年)に造らせた園内最大の石灯籠です。灯籠の上部には江戸時代の別邸、花倉御仮屋にあった飛獅子が乗っています。
笠石はかつて磯浜の海岸にあったもので、たたみ8畳ほどの大きさがある非常に大きなものです。
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獅子は空から飛び降りてきて、着地後に桜島の方を振り返った姿だそうだ。
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御殿前

御殿前では、新藩主就任祝いの御前相撲のシーンが撮影されました。藩主・島津斉彬[渡辺謙]や於一(篤姫)[北川景子]は、この場所から相撲を観戦。海側に広がる一帯には1週間かけて土俵が設置され、西郷吉之助(隆盛)[鈴木亮平]や大山格之助(綱良)[北村有起哉]らによる白熱した相撲が展開しました。また、西郷小吉(隆盛)[渡邉蒼]少年たちが「磯の御殿」に忍び込んだのも、この一帯です。
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御殿前の大池

御殿前の大池では、島津家の親子のシーンが撮影されました。藩主・島津斉興[鹿賀丈史]が側室のお由羅[小柳ルミ子]、息子の島津久光[青木崇高]と語り合う最中に、久光の異母兄の斉彬[渡辺謙]が登場し、アヘン戦争について議論します。このほか、西郷小吉(隆盛)[渡邉蒼]少年たちが「磯の御殿」に忍び込み、少年の1人が池に落ちてしまうシーンも撮影されました。
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石階段

曲水の庭に続く石階段では、西郷たちが話し合うシーンが撮影されました。女子の格好をした西郷小吉(隆盛)[渡邉蒼]少年が父・吉兵衛[風間杜夫]にしかられていたのはこの場所です。
西郷吉之助(隆盛)[鈴木亮平]が有村俊斎(海江田信義)[高橋光臣]や村田新八[堀井新太]、大山格之助(綱良)[北村有起哉]、有馬新七[増田修一朗]らが斉彬の江戸行きに同行する若い藩士を求めている話を聞き、盛り上がっているシーンの撮影もされています。
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寒緋桜(かんひざくら)が咲いていた。

両棒餅(ぢゃんぼもち)を食べた。
「集成館」へ。
重要文化財
旧集成館機械工場

慶応元年(1865年)に竣工した、現存する日本最古の西洋式機械工場です。
集成館事業は、一時沈滞期を迎えます。しかし、薩英戦争の後、すぐに機械工場が造られ、オランダからもたらされた機械を使って、様々な機械類の部品加工、補修などを行っていました。建物は当時最先端の西洋式造船所「長崎造船所」を参考にして薩摩の技術者たちによって築造されました。厚さ60cmの石壁に強固な梁が組まれ、当時はトタン屋根が葺かれていました。
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内部は撮影禁止。
「西郷どん」を見た後なので、以前より面白かった。
天気も良かった。
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