中国の『三国志』の『魏書』東夷伝の中で倭人について書かれている『魏志倭人伝』に卑弥呼(生年不詳−247年あるいは248年頃)という女王が倭国(日本)にいて、邪馬台国に都をおいて支配していたと記載されている。 また狗奴国には卑弥弓呼という男王がいて、邪馬台国の女王卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」の戦闘状態であったが、この戦いの最中に卑弥呼が死去したという。 その男王卑弥弓呼が隣接する鹿児島神宮の主祭神である天津日高彦火火出見尊(山幸彦)と密に関係があり、のちにヤマト王朝になったと推定され、ここに卑弥呼と卑弥弓呼の両者を祀り、わが国の平和と発展を願い創建された神社である。 |
石體の神のやしろに小石つむ |
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この縁さへ愛しかりけれ |
アララギ派の歌人斎藤茂吉は昭和14年10月6日、鹿児島神宮に参拝し、その後石體(しゃくたい)神社に詣でました。この時詠んだこの歌が歌文集「高千穂峰」(歌集「のぼり路」収録)にあります。 隼人町文化協会では、文化の香り高い心豊かなまちづくりを進めるため、文化振興基金を積み立て文学碑の建立を計画しました。そこで、安産祈願のお石の習俗を詠んだこの歌を選び、ゆかりの石體神社に近いこの場所に歌人斎藤茂吉の歌碑を建立し、末永く後世に伝えることになりました。 |
当石體神社の位置は御祭神天津日高彦穂穂出見尊、豊玉比賣命が都として高千穂宮を経営された正殿の在った所で、そのまゝ社殿として祀ったもので、鹿児島神宮の起りでもあります。和同元年(708年)現在の鹿児島神宮の位置に遷り、その跡に社殿を造ったのが石體神社であります。御妃は御子鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を鵜の羽根で葺く産床の茸き終へないちにお産みになった程、それ程お産の軽かった方で、その御神名よりして伺へます。現在御本殿の前の石塔に小石が沢山ありますが、御神体の代りにその一つを頂いて、お産後は一つ加へてお返しする慣習があります。岩田帯はこの石體(いわた)神社より出た言葉といふ説があります。 |