『古事記』『日本書紀』『風土記』等に記載されている古代南九州の住民クマソ・隼人族の反乱(隼人族の反乱は養老4年・西暦720年)にちなんだ史跡として指定された。 反乱の時殺されたクマソ・隼人の霊が祟りをなしたので、その供養のために隼人塚が建立されたと伝えられる。ただし建立の目的をはっきり書いた文献・考古資料などは発見されていない。 |
隼人塚 |
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夕立はやく御空より |
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馳せくだる日に |
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見るべきものぞ |
今を去る昭和4年7月23日、与謝野晶子は夫鉄幹と共に早戸塚を訪れ、この歌を詠みました。 この歌は歌集「霧島の歌」に収められています。 隼人町文化協会では、文化の香り高い心豊かなまちづくりを進めるため、文化振興基金を積み立て文学碑の建立を計画しました。そこで、歴史的意義深いこの地に、ゆかりのある歌人与謝野晶子の歌碑を建立し、末永く後世に伝えることになりました。 |
昭和14年(1939年)10月6日、斎藤茂吉は霧島向かう途中で隼人塚を見ているようである。 |
霧島途上 |
加治木町士族の家を見などして暫くにして隼人町過ぐ |
隼人塚の直ぐそがひにし黒々としげれる山にのぼりまうでむ |
『のぼり路』 |