足利家の出身でありながら、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に重臣として遇された。 「幽斎翁聞書」「衆妙集」などの書があり、近世歌学の祖と称されている。 この和歌は、秀吉の命を受けて太閤検地のため入薩したとき詠んだものと言われている。 |
大正10年(1921年)1月1日、斎藤茂吉は桜島を訪れている。 |
櫻島は黒びかりしてそばだちぬ熔巖ながれしあとはおそろし |
昭和3年(1928年)10月10日、高浜虚子は桜島を訪れている。 |
櫻島に到る 秋晴に島のをとめの手をかざし 十月十日。再びランチにて蜜柑の村を訪ふ。 |
「あなたと私は同じ郷里なのですよ。鹿児島が恋しいとは思いませんか。霧島山が、桜島が、城山が、熱いお茶にカルカンがおいしい頃ですね。」と上野公園の西郷さんの銅像に語りかけるくだりが林芙美子の代表作「放浪記」にある。 ここ鹿児島市古里町は彼女の本籍地である。母親の郷里鹿児島市に住んでいたのは11歳の時で、桜島の大爆発のあった大正3年から約1年間である。 広島県尾道市での約6年間によき師、よき友人に恵まれ、作家としての素養を育んだ。生活苦という環境にありながらも天性の明るさを失わず、文学への情熱に燃える少女であった。 作家を志して上京した後は、「何か落ちつける職業は無いものかと、新聞の案内らんを見ているけどいい処もない」「叉、生活線が切れているんじゃないか」と思うような毎日だった。 そんな逆境の中から彼女の文学は生まれている。代表作「放浪記」、女流文学賞を受賞した「晩菊」をはじめとして多くの作品を47歳の生涯に残している。まさに「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」人生だった。 |
昭和4年(1929年)7月22日、与謝野鉄幹・晶子夫妻は鹿児島へ。 |
七月二十二日の夕鹿児島に入る。 大君の薩摩の国に龍王の都つづくと見ゆる海かな さくら嶋わが枕よりやや高く海に置かるる夏の月明 |
大阪府堺市生まれの歌人、詩人。 少女時代から古典文学を好み、与謝野鉄幹の主宰する新詩社の社友となって作家活動に入った。 1901年刊行した歌集「みだれ髪」によってロマン主義に新風を投じ、短歌革新の担い手となった。「小扇」「舞姫」などの歌集の他、「新釈源氏物語」などの現代語訳も有名である。 |
昭和29年(1954年)10月19日、水原秋桜子は林芙美子文学碑を見ている。 |
林芙美子文学碑 火の山を負ひ立つ碑なり草紅葉
『玄魚』 |
東京生まれの医師。 俳句の指導を高浜虚子に受け、1928年「馬酔木」を創刊し、新興俳句運動を推進した。 定型を守りながらも新鮮な感覚を生かした俳句作りを行った。 句集に「新樹」「波の群」、評論に「俳句の本質」などがある。 |