洲崎寺は眺海山円通院と号し、大同年間(806〜)に弘法大師により創建されました。本尊である「聖観世音菩薩」は大師の作と伝えられています。 源平合戦・長宗我部氏の侵攻により焼かれるなど、繁栄と衰退を繰り返し、元禄12年(1699年)に再興され、現在に至っています。 源平合戦時、義経の身代わりとなり討死した佐藤継信の亡骸を、戦火によって焼け落ちた本堂の扉に乗せて源氏の本陣の瓜生ヶ丘まで運ばれたと伝えられており、継信の菩提寺として、毎年3月19日に慰霊法要が行われています。 平成12年(2000年)に再興300年を記念して完成した庭園は、苔と石で「屋島檀ノ浦の戦い」を表現し、境内壁面に「扇の的」・「弓流し」等の合戦のあらましを刻んだ説明板があります。 また、江戸時代四国八十八ヶ所霊場を庶民に広め、「四国遍路の父」と称えられている「真念」の墓があります。
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平安時代末期 寿永2年(1183年)7月、木曽義仲に敗れた平家は、幼帝・安徳天皇を奉じて、六万寺と屋島檀ノ浦〔安徳神社〕の地に陣を布敷き、勢力の回復をはかり、源氏軍の襲来に備えていた。 時に、寿永4年(1185年)2月19日、平家追討の命を受けた義経率いる源氏勢は、わずか150騎で数千を超す軍団が守る屋島に攻め込んだ。 思いもよらぬ陸路からの急襲に慌てた平家は、辛うじて舟で沖へ逃げた。そして、戦いは、沖の平家と陸の源氏による弓矢の合戦となった。 この戦いは、数々の英雄と悲劇を歴史に残した。[佐藤継信の討死]・[扇の的]・[錣引き]・[弓流し]等、数多くの話と史跡が今に伝えられている。 |
@寿永4年2月18日 義経率いる源氏軍は阿波勝浦に上陸する。 A平家方の桜ノ間城を攻め落とす。 B源氏軍は淡路の江田源三ら約30騎と合流する。 C大坂峠で平家の使者を捕える。 D大内町丹生から二隊に分離する。 本隊は内陸から、別隊は海岸沿いから屋島に迫る。 E19日朝、屋島に到着する。 別隊も合流し平家に攻め入る。 F那須与一ら約30騎、赤牛崎(あかばざき)を経て安徳天皇社を焼き払う。 Gあわてた平家は舟に乗り移り、海へと逃げる。 入り江に浮かぶ平家の舟軍と浜辺の源氏軍の戦いとなる。 H平家の勇将教経が総門に上陸し弓矢戦となる。 この時、源氏の勇将佐藤継信が義経の身代わりとなり討死する。 I夕刻、源氏勢は瓜生ヶ丘に陣を敷く。 J明けて20日、当地近辺で戦いはせめぎ合いとなる。 [扇の的][錣引き][弓流し]等の話はこの時の出来事である。 K翌朝平家は海を越え源氏勢の背後から攻める。 義経はそれを察し、志度寺辺りで平家を打ち破る。 L平家は戦いに敗れ、屋島をあとに西海に落ちていく。 |
屋島合戦では数多くの死傷者が出た。義経四天王の中の佐藤継信もその一人である。 平家きっての強者・教経は源氏の大将・義経を射落とさんとするが、武蔵坊弁慶、佐藤継信・忠信の兄弟、江田源三らの勇士たちが駒をずらりと並べて義経の前に立ちはだかる。教経が「九郎判官義経はずこにあるや……」と放った矢は、先頭を切って立ち向かってきた継信の左の肩から右の脇腹を射抜いた。継信は義経の身代わりとなって討ち死にしたのである。 そして、継信の亡がらは戦火によって焼け落ちた洲崎寺の焼け残った本堂の扉に乗せられて源氏の本陣の瓜生ヶ丘まで運ばれた。洲崎寺は継信の菩提寺となり、毎年春には慰霊法要が行われている。 義経が建てた継信の墓は、義経の愛馬大夫黒の墓と並んで葬られている。 |
日はすでに傾き、沖では平家の軍船が赤旗をなびかせて態勢を立て直していた。と、その船団の中から1艘の舟が渚に向かって漕ぎ寄せて止まった。見れば、舟の舳先に赤地に金の日の丸を描いた扇を付け、優美な女性が招いている。 「これは扇を射よとの合図でしょう。」そして、弓の名手、那須与一が選ばれた。この扇を射落とさねば源氏の恥。与一は祈り岩まで馬を進め、『南無八幡大菩薩、願わくはあの扇の真中を射させ給え』と一心に願った。 決意した与一は駒立岩に駒を止め、鏑(鳴矢)を取って引き絞り、ひょうと放った。矢は見事に扇に命中した。 『浦響くほどに長鳴りして、あやまたず扇の一寸ばかりを射て、ひふっとぞ射切ったる。鏑は海に入りければ、扇は空へと揚がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風にも一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ落ちたりける。みな紅の扇の日いだしたるが、夕日の輝いたるに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、陸には源氏、箙(矢入れ)をたたいてどよめきけり。』 |
源氏の武将 美尾屋十郎は平家の勇士、悪七兵衛景清の大長刀で太刀を落とされ、逃げようとした。景清は、十郎の兜の錣をつかみ、逃がせまいとする。 引っ張り合いの末、遂に錣が切れ、十郎は逃げきった。十郎が「腕の強さよ」と下を巻けば、景清は「首の強さよ」と十郎を褒め称えた。 |
源氏の大将 義経は一寸した油断があったのであろうか、平家の舟から繰り出される熊手に引っかけられ、弓を海に落としてしまった。弓は波間に見え隠れして流れてゆく。 「お捨てなされい。お捨て下されい。」と部下たちが止めるのも聞かず、義経は右手の太刀で戦いながら、左手のムチで弓を拾いあげた。 「一張の弓と大将軍の命と何れが大切であるか。」と語気を荒げる部下たちに義経は答えた。「叔父為朝の弓のような剛弓であるならば、わざとでも敵に拾わせてやろう。しかし。拙者程度の者では、源氏の大将の名をけがすことになる。それが、口惜しかったのだ。」 |