本尊 | 十一面観世音菩薩 |
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脇士 | 不動明王 毘沙門天 |
仏教が、幾多の文化とまじわり困難を乗り越えながら日本へ伝来(538年)した後、讃王の時代には、寺に縁のある近江の越の凡薗子(おうしのそのこ)が「見仏聞法」に目覚め、推古33年(625年)には、補陀洛渡海信仰に始まり、観音浄土の瀬戸の入口として十一面観世音を新たに刻んで観音堂を造立し開創。 亡き母の追善菩提のために藤原不比等の次男房前(ふさざき)公が、行基に法華八講の修法を営ませて堂宇を建立、千基の石塔群に自ら写経して経塚に奉納したものが、現在の海女の墓である。 これらの史跡を伝えながら、行基、最澄、空海、覚阿、阿一入道が堂宇を修復し、細川頼之・勝元公の護持、藤原家末裔の生駒親正(ちかまさ)公等の支援を得て、法相宗・天台寺・浄土宗・真言宗と時代により変遷しながら、初代高松藩主松平頼重が堂塔を寛文11年(1671年)に寄進造営されて今日に至った古刹である。 一万坪の広い境内には、人形浄瑠璃で有名な「花上野誉碑(はなのうえののほまれのいしぶみ)」の舞台となった奥書院、またその南側には池水を巡らした回遊式庭園、枯山水式の無染庭等がある。 東側の宝物館には、志度寺の歴史を偲ばせる仏像・古文書・古美術等、国重要文化財等を収蔵している。 |
昭和14年(1939年)10月25日、山頭火は小豆島から高松に渡り、屋島から志度寺、長尾寺、大窪寺を巡拝している。 |