明治43年(1910年)の『高等小学読本』巻一には、「我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシテ、之ヲ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ批ノ三公園ニ優レリ」とあるそうだ。 |
松平5代藩主頼恭公は、花木が咲き誇る百科園に加え、ここに薬園を営んだ。各地から薬草を取り寄せ、その栽培管理には平賀源内も起用、現在は、梅林と茶園になっている。 |
松平二代藩主頼常の頃、南庭の東南隅に「考槃亭」という官休庵流の茶亭がありましたが、その後、会僊巌の東方に移築、「日暮亭」と改称され、さらには圏外の私人へ移るなど、この建物は、様々な変遷を経てきた。 昭和20年(1945年)、関係者の尽力により、再び圏内に「新日暮亭」として甦った由緒ある茶室であるが、歴史的経緯を踏まえ、現在は「旧日暮亭」と呼ばれている。 |
西湖の石壁を流れるこの滝は、旧藩主の鑑賞用としてつくられた。紫雲山の中腹に置いた桶まで人力で水を汲み上げたことから桶樋滝という名前がついたといわれている。現在は西湖の水をポンプアップし流水している。 |
明治43年(1910年)10月9日、河東碧梧桐は栗林公園の東讃俳句大会に参列した。 |
東讃俳句大会に列したけれども、予は連日の選句に疲れてただ末席を汚したのに過ぎなかった。互選結果後、新傾向に対する質問も出たけれども、これに答えるのが甚だ懶(ものう)い心持であった。大会の席は栗林公園内の、すぐ南湖に臨む一旗亭であったが、麩を投げると寄って来る鯉の中に、一尾五百円千円の値するもののあるということをこの頃始めて知った。その千円鯉は、全体の白い、腹の処に赤味と黒味とを帯びたものである、というような説明を却て興あることに聞いた。 |
午後、豫定に從つて彼は高松へ行くつた。的(あ)てにして來た城内の庭は見られなかつたが、栗林公園といふのを見た。それから彼は町を少し歩いた。
『暗夜行路』 |
大正10年(1921年)5月20日、若山牧水は栗林公園を訪れている。 |
大正14年(1925年)5月19日、高浜虚子は掬月亭で俳句会。 |
五月十九日。早朝大阪を出て午後三時高松著。春雷居に入る。栗 林公園掬月亭に於て俳句会。会者、婆羅、春雷、岐陽史、公羽等 四十名。 白扇の愈々白し夕間暮
『年代順虚子俳句全集』 |
大正15年(1926年)、河東碧梧桐は再び栗林公園を訪れている。 |
栗林公園即時 水べの石夕明りして渡る橋の一つを |
昭和10年(1935年)6月5日、北原白秋は栗林公園の掬月亭で昼食。 |
高松へ還り、宏莊と優雅とを極めた栗林公園の池畔掬月亭で一同晝餐を認めてゐる間も又、さきの女學生等、ほとりの松陰に集つて三々五々と覗いたり、あちこちしたり、後には立ちがけに一寸と日傘を振つた。無邪氣なものであつたが、勇敢なる一人がたうとう縁先まで來てサインをさせて了つた。
『薄明消息』(南方旅行の話) |
昭和11年(1936年)4月1T日、吉井勇は琴平から高松へ。 |
十一日、琴平より高松へ。栗林公園を徘徊するうちに象嶽公の銅像に逢着。これは藤川勇造氏最後の作品にして、中々よき出来なり。この庭園は岡山の後楽園よりも遥かに幽邃、環境も背後に山を負ひてよし。 |
昭和13年(1938年)10月20日、高浜虚子は掬月亭で俳句会。 |
肌寒も残る寒さも身一つ 十月二十日 一行の中に年尾も加はり、高松栗林公園内、掬 月亭俳句会。此夜高松古新町かしく泊。善通寺に正一郎伍長 を訪ふ。 |
昭和13年(1938年)11月1日、星野立子は八栗寺から栗林公園を訪れた。 |
次は栗林公園である。夕方の公園は小寒く広々と美し かつた。太鼓橋迄はゆかなくてもその端の上から鯉に投 げてやる麩に水の上をとぶやうな勢で鯉たちは集つて来 るのだつた。みるみる暗さもまして来る。 夕鵙のうしろに叫び月前に 石蕗すがれはじむる前のひとさかり
「続玉藻俳話」 |
昭和24年(1949年)、中村草田男は栗林公園を訪れている。 |
栗林公園にて 三句 寒水の緋鯉よきのふの癩の島よ 大名・明治三度び代かはる林泉(しま)紅葉 癩者見し新酒美酒飲む人も見し |
昭和27年(1952年)4月15日、星野立子は栗林公園へ。 |
高松の金星館に一時半著。土地の俳人方に逢ひ中食。 句会。栗林公園へ。 安木節躍るせつせつ余花の下 花見客で賑やかである。掬月亭のあたりに休んで静か に今夜四国を去る心持になつてゐる 春惜しむ別れを惜しむことに今は 菖蒲の芽流るゝ水の浅く急
星野立子・未刊句日記 |
昭和29年(1954年)4月17日、水原秋桜子は栗林公園で点茶。 |
午後降りいづ。栗林公園点茶 若楓雨滴のしげく暮れゆくも
『帰心』 |
昭和36年(1961年)11月、石田波郷は松山から帰京の途中、高松、屋島に遊ぶ。 |
高松栗林公園 敗荷(やれはす)や旅の暇のおのが影
『酒中花』 |
昭和44年(1969年)5月、山口誓子は栗林公園を訪れた。 |
翌日は、栗林公園を見に行つた。前にも見たが、何度でも見る。 北から入つて、北庭の蓮池を見た。蓮の花が遠くの方に咲いてゐた。 遠き世の如く遠くに蓮の華 案内されて、池の茶屋・掬月亭の、池に突き出た部屋で抹茶を喫した。 唐の于良史に「月を掬すれば月手にあり」といふ詩句がある。それが出典。 部屋から見える汀には、白い礫(こいし)がつまつてゐた。月を掬する亭にふさはしい。 掬月亭を出て、池をめぐり、前に来たときもさうしたやうに、太鼓橋から、掬月亭をかへり見た。その亭はそこから見るのが一番美しい。 廻遊式の庭園を、道しるべに従つて廻遊した。 廻遊の万緑吾に蹤(つ)き来たる
「高松行」 |
園内で名のある14橋のうちの一つで最も大きい橋であり、その名は弓張り月が湖面に影を写す姿に似ていることからこの名があり、反りをもった美しい大円橋である。 平成13年に架け替えられたこの堰月橋は、宝くじの普及宣伝事業として整備されたものである。 |
飛来峰から眺める南湖を中心とした奥行きのある景観は、本園を代表する絶景の一つ。藩主が江戸を懐かしみ、富士を模して造らせたと伝えられる築山で、“飛来峰”という名称は、中国杭州にある名勝地から得た命名といわれている。 |
目の前の島(杜鵑嶼(とけんしょ))にあるハートの形をしたツツジは、剪定作業で偶然にできたものである。カップルや結婚式の前写しの背景などとして、人気の撮影スポットになっている。 |