明和3年(1766年)9月、蕪村は讃岐に赴き、越年。 明和4年(1767年)、再び讃岐に赴き、越年。 明和5年(1768年)、讃岐を去り、京都へ帰る。妙法寺に立ち寄る。 |
昭和9年(1934年)に建造された和風公会堂。木造の日本建築で、入母屋造柿葺風の大屋根に玄関棟、和室棟の屋根が連なる。四季を通じて美しい庭園を前にどっしりと落ち着いたたたずまいをみせています。 |
讃岐は蕪村ゆかりの国である。 蕪村は明和三年秋から明和五年夏まで、讃岐に滞在した。蕪村五十一歳から五十三歳まで。 蕪村が讃岐へ行きたかつたのは、大雅も応挙も金毘羅参りをしたからである。その歌枕ならぬ画枕を訪ねて来たのである。そして未知の自然を自分の眼でよく見たかつたのである。 琴平が本拠だつた。象頭山の下の臨川亭にゐた。その川は琴平の市中を流れる金蔵川。俳人菅暮牛の家だ。 そこから丸亀へ行き、通町の妙法寺に滞在して、襖絵を何枚も描いた。その寺は菅氏の菩提寺だつた。
「高松行」 |
昭和21年(1946年)11月10日、琴平町公会堂でホトトギス六百号記念四国大会。 |
午後の會は琴平公會堂で開かれた。會衆は五百人許りであつた。其席上で、 傳奇にも酒手くれうぞ紅葉駕 といふ私の句が座興として正一郎君から傳へられた。其櫻屋の私の部屋に掲げてあつた私の古い句 、 山駕や酒手乞はれて櫻人 から思ひついて傳奇君の勞をねぎらふ積りで戯れに作つたものである。正一郎君は會衆に、傳奇君は下吉田から遙々參集をしたこと、さつき山で私の駕をかついだこと等が詳細に報告された。
『父を戀ふ』「駕」 |