○人生一世客のごとし。何ぞ今朝別離ならむと。いさめつ諫られて。隣山の金毘羅山に行く。町屋木村氏寸木俳人笠を脱ぐ。同和の友しなけれは響うらなく。先當山にまふでんと二人三人かたらひ。神坂二十餘町をたどる。 |
延享3年(1746年)、佐久間柳居は金比羅詣をしている。 |
こゝの札守は初穂によりて軽重あるよし世俗申伝へ侍る 桐は重し柳一葉も札まもり |
明和8年(1771年)、蝶夢は桐雨と金刀比羅宮に参詣した。 |
金毘羅権現は海の上を守り給ふ神なればとて、同船の人々と共に参る。道のほど百五十町余りとか。弘法大師誕生し給ひし屏風が浦・弥谷・善通寺も近しとぞ。左の方に飯の山あり。さらには山もなくて、よくにたればとて、讃岐富士と申すとか。 |
安永8年(1779年)、横田柳几は金毘羅山で句を詠んでいる。 |
讃岐金毘羅山にて 牙ほとに三日月涼し象頭山 |
天明2年(1782年)5月8日、森々庵松後は金比羅宮に詣でる。 |
この夏もまた象頭山に詣て あまへよき神にいく度ぬさの若葉
『厳島紀行』 |
寛政3年(1791年)4月、蝶夢は再び金比羅宮に参詣している。 |
またこの日は山路がもとを出て象頭山にまうづ、この御神の靈驗いちじるければにや、昔まうでしにもまさりて、都鄙の參詣引もきらず、飯の山は國の中にある山にて、山の姿の似たればとてにや讃岐富士と云、瀧の宮は菅家この國の守にあらせ給ひし時の館の跡といふ、
『四國に渉る記』 |
寛政5年(1793年)、森々庵松後は筑紫に向かう途上、金比羅宮に参詣しているようだ。 |
金比羅宮參詣 花に醉ふて眠るか如し象頭山
『心つくし』 |
この歌は全国津々浦々から当宮へ参拝される崇敬者の幸福を強く願う気持が込められた一首で琴陵宮司歿後5年を記念して建てたものである。
金刀比羅宮社務所 |
文政10年(1827年)5月18日、鶴田卓池は金比羅大権現に参詣。 |
象頭山参詣。金比羅大権現、本堂東向、別当松尾寺、坊五ヶ寺、左ノ方ニ大麻山、小麻山ト云有。金比羅知行三百廿石 |
嘉永6年(1853年)2月7日、吉田松陰は江戸に行く途中で金刀比羅宮を訪れている。 |
七日 晴。早く起き、同舟皆金毘羅に赴く、余も亦同じうす。ここより金毘羅市に至る、三里。中間に善通寺あり、弘法大師の誕生所と相傳ふ。市中を行くこと又十八町にして祠あり。祠は地高敞、遠望頗る人意を快くす。市の戸口は意を以て之れを料るに千戸を下らず、壯麗繁華、一都會を爲せり。 |
本社へ上る急な石段がある。その前が殊にいいやうに思つた。然し本社から奥の院までの道は、最近に作つたものらしく、人工の美は皆無だつた。只、尾の道で松ばかり見てゐた眼に色々變つた山の大きい木が物珍らしかつた。が、その内、不圖その木の肌を氣味惡く思ひ出すと、彼の弱つた神經は、それから甚(ひど)く劫(おびや)かされた。
『暗夜行路』 |
永治元年(1141年)、譲位。 |
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保元元年(1156年)、保元の乱で讃岐に配流。 |
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長寛2年(1164年)、46歳で崩御。 |
吸海樓ヨリ東北ノ方に山有。飯ノ山ト云。讃岐不二と呼ハ此山也。 旅人の是をや冨士といゝの山あさ餉の烟立ぬ日ハなし
西行
白峰 崇徳院ノ御歌 啼ハきゝきけハ都の恋しきにこの山過よ山ほとゝきす
『西遊日記』 |
明治41年(1908年)、森鴎外は琴平を訪れ旅館「花壇」に1泊した。 |
明治43年(1910年)10月10日、河東碧梧桐は琴平の大祭を見に行った。 |
十月十日。雨。 きょう明日は琴平の大祭で、きょうは御神体がお旅所の神事場へお下がりになるという。お下がりになる行列が一見すべきものである、というので午後の汽車で来た。 |
河東碧梧桐は琴平の旅館「すし駒」の主人・菱谷竹人と気が合い、何度もこの宿に泊まった。その時、宿代として「温泉めぐりして戻りし部屋の桃の活けてある 碧」など豪快な染筆を残したそうだ。 |
大正10年(1921年)3月22日、斎藤茂吉は長崎から東京へ向かう途中で金比羅に参詣している。 |
大洋(おほうみ)をわれ渡らむにこの神を齋(いは)ひてゆかな妻もろともに |
昭和10年(1930年)6月6日、北原白秋は屋島、琴平に遍歴。 |
昭和12年(1937年)、斎藤茂吉は金比羅に参詣している。 |
琴平より高砂加古 金毘羅の荒ぶる神をみちのくの穉(をさな)き吾に聞かせし母よ 金毘羅の神います山晴れたるにあへぎて登り忽ちくだる
『寒雲』 |
昭和13年(1938年)11月1日、星野立子は「琴平花壇」の人に案内されて金比羅に参詣。 |
十一月一日、宿の者に案内されて琴平様にお詣りする。 裏道をのぼつて行つたので正面から行くのよりも段は少 ないのだつたが、すつかり膝のところががたがたしてし まふ程だつた。鵙が大きな声で鳴いてゐた。櫨紅葉と漆 紅葉の美しさ。 みぞそばの花を手折りてとみかう見
「続玉藻俳話」 |
昭和21年(1946年)11月10日、高浜虚子は駕籠に乗って金比羅に参拝した。 |
間も無く神社の石段にかゝつて、駕舁は筋違ひになつて一段づゝ足を揃へてよいよいと聲をかけて上つた。數十人の人が駕について來るやうであつた。其中に年尾や立子等もあつた。石段の兩側に櫛比してゐる土産店の者は此駕を珍らしさうに見送るものもあつた。此頃になつては駕に乘つて登る人などは滅多に無いことであらうと思はれた。現に此駕も櫻屋の藏にしまひ込んであつたのを取り出して修覆を加へたものであるとか聞いた。
『父を戀ふ』「駕」 |
十一月十日。琴平詣。父は準備されてあつた籠に乗る とのこと。はじめのうちは私等と一緒に何段もの尽きる ことのない程の石段を登りはじめる。 |
昭和30年(1955年)12月、山口誓子は琴平を訪れている。 |
琴 平 信仰は高きへ登る冬霞
『構橋』 |