正式には金剛力士といい、仁王という。但し、昔朝鮮に王(ワン)という兄弟があり、佛門の警固に当たったことに因み二王とも。当門は、その故事による。 貧寺として、後世に残る像を造る資力なく、郷土出身の力士の顕彰を兼ねて造立。多度津町内の彫刻家、神原象峰氏により一旦造象されるも、象徴的すぎるなどとの申し出があり、琴ヶ浜」の親友であった観音寺市、松本三郎氏が再彫刻。 場所中、杉山家を訪れたことがあるが、たて長い顔はお父さん、横幅はお母さんそっくり。お母さんは取り組み中目を伏せていられたが、勝ったあとのビデオを安心してみていたのが印象的。 本山寺(重文)八脚門をモデルに庭瀬文部技官の設計により昭和40年落慶。 |
貞享2年(1685年)、京都から大津に至る山路を越えて行く時に詠んだ句とされる。 |
九月二十五日。村尾公羽歿す。 はゝき木の遂になきこそ淋しけれ
『句日記』(昭和15年) |