総門跡の前で「むれ源平石あかりロード」から県道36号高松牟礼線に出ると、射落畠(いおちばた)があった。 |
寿永4年(1185年)2月19日、源平合戦の際、源氏の武将佐藤継信が大将義経の身代りとなり、平家の雄将能登守教経の強弓に射落された所です。 昭和6年、継信の墓所大修築と共にこの地に柵をめぐらし池泉をつくり、射落畠碑と遠祖君乗馬薄墨碑を建立し、これをあらわしました。
高松市教育委員会 |
昭和6年(1931年)5月、継信三十世の孫佐藤信古氏が蓮畑の一部を買い取り整地したそうだ。 |
佐藤継信戦死の地を射落畠といひ、蓮堀にてかこまれたり 蓮枯れて水に立つたる矢の如し
『晩華』 |
この地は源義経の四天王の一人佐藤継信戦死の場所である。継信は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔にして藤原秀衡に従う。継信は若くして智略兵法に通じ、豪勇の名を知られる。源義経陸奥に来て秀衡の批護をうけ、後頼朝挙兵を援けるため都に上るに際し、父の命により継信・忠信の兄弟もこれに従う。連戦して平家を追い屋島壇(檀)ノ浦にいたり、敵将平教経の挑戦をうけ、義経の身代わりとして戦死。時に年28才。 継信は、みちのくいで湯の里飯坂大鳥城の出身であり、源平800年祭と当クラブ結成20周年を記念してこの碑を建立するものである。 |