俳諧の祖、山崎宗鑑が享禄元年(1528年)に結んだ庵である。宗鑑は寛正6年(1465年)、滋賀県に生まれた。本名は志那範重(通称弥三郎)と言い、第9代足利義尚将軍に侍童として仕えていたが、義尚が25歳で亡くなったことを契機に剃髪し、名前を宗鑑と改めた。明応年間に京都の山崎に住むようになってからは、山崎の姓を名乗り、歌道・書道を教えながら暮らした。特に俳諧・連歌に没頭した。 親交のあった京都東福寺の僧、梅谷がこの興昌寺に帰山したのを機に梅谷を訪ね、寺のほとりに庵を結んで晩年26年間住んだ。「上は立ち 中は日ぐらし 下は夜まで 一夜泊りは 下々の下の客」と題し、一夜以上の宿泊を許さなかったことから「一夜庵」と名づけた。6畳と4畳半での生活は常に簡素で、文学書道を奨励し、天文22年(1553年)旧10月2日に89歳で亡くなった。 当時流行した貴族文学の連歌や和歌に飽き足らず、これを簡素化した俳諧・俳句を生み出したことから、俳諧の祖とされている。 興昌寺の境内に日本最古の俳跡といわれている。建立は享禄元年(1528年)で、その後4回ほど修復されたがほぼ原形をとどめている。一夜庵の屋根には宗鑑の生誕地琵琶湖の葦が一部使われている。「一夜庵」の名は宗鑑が来客の一夜以上の滞在を好まなかったという次の句にも由来している。一夜庵での創作活動は活発で、多くの俳人が彼を訪れた。 草屋根の数寄屋造の草庵は、利休以前の茶道が形式化しない頃の茶室として知られ、何度か修築されたが、今もその原型は保存されている。宗鑑が縁で滋賀県草津市と昭和57年(1982年)に姉妹都市を結んでいる。 |
花にあかでたとへばいつまでも一夜庵 | 宗因 |
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いなれぬや雪の下客の一夜庵 | 鬼貫 |
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松涼し鶴のこころにも一夜庵 | 支考 |
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きりぎりすさむしろゆるせ一夜庵 | 竹阿 |
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此庵に短過ぎたる我日かな | 小波 |
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浜から戻りても松の影ふむ砂の白きに | 碧梧桐 |
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宗鑑の墓に花なき涼しさよ | 虚子 |
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松の奥には障子の白きに松 | 井泉水 |
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一夜庵筒ぬけ風に蝉涼し | 野風呂 |
観音寺市 |
橋上ノ霜といふことをよみ侍りける | 法印幸清 |
片敷の袖をや霜に重ぬらむ月に夜がるゝ宇治の橋姫 |
宝永3年(1706年)2月、除風は一夜庵を再興して定住する。百花坊と号す。 安永4年(1775年)1月24日、小西帯河は宗鑑二百年忌を営む。「梅のむしろ」 |
明治43年(1910年)10月31日、河東碧梧桐は一夜庵の跡を見ている。 |
名のある琴弾山に上り、ここに歿したという宗鑑の塚及びその一夜庵の跡というものも見た。宗鑑の事跡を審かにせぬのでその真偽を知らぬ。一夜庵という茶室めいた作りは、この頃の新築になるものではあるが、室の間どりや庇、屋根の作り等総て昔のままを模したとの事である。雪隠がこの一間作りの庵室に比べて不調子に手広く出来ておるが、宗鑑その人の不精さも思いやられるなど語る。 |
大正14年(1925年)5月20日、高浜虚子は一夜庵を訪れている。 |
観音寺、一夜庵にて小集。二句 宗鑑の墓に花無き涼しさよ 此屋根の葺き下ろされて涼しさよ 五月二十日、午後二時二十分高松發、三時十分観音寺著。竹の谷よ り琴弾山に登り一夜庵にて小集。會者、公羽、春雷、婆羅、鴎汀、 舟居、華石、ひろし等十七名。 |
昭和3年(1928年)10月4日、高浜虚子は興昌寺を訪れている。 |
岩窪に小鳥のあびる水たまり 十月四日、午後興昌寺を訪ひ、一夜庵の縁に小憩。それより琴弾公 園内の俳句會場に赴く。會者、六十五名。選句後講話。 |
平成4年(1992年)1月、阿波野青畝は一夜庵を訪ねる。 |
一夜庵 宗鑑の声には非ず障子貼る
阿波野青畝『宇宙』 |