南部にもこんな日和があるかと思うほど穏やかな日じゃ。
午後岩手公園を観る。幾万円とかを費やしたというので、東奥の天地に評判の公園になった。東京の日比谷公園を作った人の設計になるとかで、樹木の植え方、丸い自然石で畳んだ溝、四阿屋の洒落な作り、いずれも日比谷公園式である。ただこっちは築き上げた昔の城跡をそのままに取囲んだので、日比谷の平面式とは反対に突起的である処が違う。
それから、根から白い雪の南部富士に対する雄大な景と、古雅な鰐口でも振るような馬の鈴を聴く趣きとは、武蔵野を掘り返しても見当らぬ。
片富士の片そぎや雪の峰つづき
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「南部富士」は岩手山。別名、南部片富士。
「二の丸」に新渡戸稲造文学碑があった。

願はくはわれ
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太平洋の橋
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とならん
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文久2年(1862年)8月8日(新暦9月1日)新渡戸稲造は盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれた。
明治10年(1877年)、札幌農学校に入学。
大正7年(1918年)、東京女子大学学長に就任。
昭和37年(1962年)9月1日、新渡戸稲造生誕百年を記念して建立。
昭和59年(1984年)11月1日発行の五千円紙幣の肖像として知られている。
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石川啄木の歌碑もあった。

不来方のお城の草に寝ころびて
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空に吸はれし
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十五の心
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出典は『一握の砂』。
昭和30年(1955年)10月、啄木生誕70年を記念して建立。
少年時代の石川啄木が学校の窓から逃げ出して来て、文学書、哲学書を読み、昼寝の夢を結んだ不来方城二の丸がこの地だった。その当時盛岡中学は内丸通りにあり、岩手公園とは200メートルと離れていなかった。
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岩手公園から中の橋を渡る。
明治39年(1907年)12月19日、河東碧梧桐は中の橋について書いている。
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日光の神橋以北擬宝珠のある橋というのは、恐らくこの地の中津川に架した中の橋であろう。南部侯が洛の三条に擬した名残を止めておる。擬宝珠に「慶長何年」という刻印がある。惜しむらくは、今の橋の形がその擬宝珠と調和しておらぬ。しかもペンキ塗りである。県庁の建物は宏壮東奥第一じゃ。市役所は貧乏な裏長屋に似ておる。
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明治43年(1910年)の大洪水後、中ノ橋が洋式架橋された。大正元年(1912年)11月に中ノ橋の擬宝珠は下ノ橋に移された。
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大正5年(1926年)3月、若山牧水は盛岡城址で歌を詠んでいる。
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盛岡古城址にて
樅桧五葉の松はた老槙の並びて春の立つといふなり
雫石川か中津川か
城あとの古石垣にゐもたれて聞くとしもなき瀬の遠音かな
第9歌集『朝の歌』 |
大正15年(1926年)10月21日、牧水は沼津発、福島泊、22日盛岡泊、23日青森泊、24日札幌着、その後1ヵ月半北海道を巡る。
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昭和2年(1927年)9月1日、九条武子は北海道・樺太旅行の帰途盛岡を訪れている。
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あぜ豆の出来のよろしさ久にして車井の音をたちいでてきく
岩手富士紺の色してややややに闇にこもらう夕べを語る
いにしえゆ名に流れたる北上の水うつくしみ夕ぐれ渡る
みちのくのふるき城下の街道を絵草紙に見し馬ゆく人ゆく
『薫染』 |
中の橋を渡ると、盛岡銀行中ノ橋支店があった。

国の重要文化財である。
明治44年(1911年)4月、辰野金吾の設計で盛岡銀行本店として完成。
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弧光燈(アークライト)にめくるめき
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羽虫の群のあつまりつ
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川と銀行木のみどり
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まちはしづかにたそがるゝ
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