盛岡中心市街地循環バス(でんでんむし)で県庁・市役所前下車。料金は120円。 |
大正3年(1914年)、原敬は政友会総裁となる。 大正7年(1918年)7月23日、魚津の米騒動。9月20日、寺内内閣総辞職。 大正7年(1918年)9月27日、原総裁に大命降下。29日、原内閣発足 大正10年(1921年)10月15日、加藤友三郎は東京駅から横浜大桟橋へ。原敬は横浜大桟橋まで送る。 大正10年(1921年)11月4日、原敬は関西での政友会大会に出席するため東京駅に到着直後、心臓を刺され、ほぼ即死。享年66。5日、永井荷風は原首相暗殺の話を聞く。 |
道路の談話を聞くに、原首相東京驛にて刺客の爲に害せられしと云ふ。余政治に興味なきを以て一大臣の生死は牛馬の死を見るに異ならず、何等の感動をも催さず。人を殺すものは惡人なり殺さるゝものは不用意なり。 |
盛岡市出身の第19代内閣総理大臣である原敬先生(1856〜1921)。「平民宰相」として有名であり、我が国の政党政治の基盤を形成し、日本で初めて本格的政党内閣を実現した岩手県が誇る郷土の偉人です。 原敬先生の偉大な功績を讃え、没後30周年の昭和26年(1951年)に岩手県議会議事堂があった岩手県公会堂の前に銅像が建立されました。 作者は高知市桂浜の坂本龍馬像などの制作でも有名な高知県出身の本山白雲(1871〜1952)。胸像の高さは約67cm、台座は約174cmで、桜御影石で作られています。
岩手県公会堂 |
城下盛岡町名由来 |
江戸時代、盛岡城の内堀と中堀の間に囲まれた区域を内丸と称したことに由来。藩主の一家・一門など高知(たかち)という重臣の武家屋敷が置かれた地域であった。寛永13年(1636年)、三代藩主南部重直は御新丸という別郭を造っている。中堀は堀と土塁が廻らされ,外の町と区切られていた。東に中ノ橋御門、北に大手先御門、西に日影御門があり、番所の検問を受けなければ入れなかった。明治3年(1870年)に門が撤去、堀も埋められて出入が自由となった。武家屋敷も払い下げられて取り壊された。 明治維新後は、盛岡県の県庁(明治5年以後は岩手県庁)が置かれ、官庁街として発展する。明治13年(1880年)には岩手中学校が設立され,同32年(1899年)に岩手県盛岡中学校(現県立盛岡第一高校の前身)と改称し,石川啄木や宮沢賢治などを輩出。明治22年(1889年)に盛岡市制が施行され,盛岡市役所が置かれた。 なお、国指定天然記念物・石割桜のある盛岡地芳裁判所の場所は、江戸時代に北家の武家屋敷だったところである。
盛岡市 |