宮澤賢治(1896〜1933)は、岩手県花巻の地に生まれた。その生涯は、熱烈な法華経信仰に生き、詩人・童話作家・科学者・農民指導者として、21世紀を予見し秀れた作品を今日へと托し、37歳の若さで世を去った。 文語詩「岩手公園」は、死期迫る1ケ月前の、昭和8年(1933年)8月22日に病床で清書し終わった、「文語詩稿一百篇」中の一詩である。 作中の「タッピング」は、明治41年(1908年)から大正9年(1920年)まで、盛岡バプティスト教会牧師だった、米国人ヘンリー・タッピングがモデルである。「ミセスタッピング」は、夫人のG・F・タッピングで、教会附属の盛岡幼稚園を創立した。「大学生のタッピング」は息子のウィラード・タッピングで、「なが姉」はヘレン・タッピングである。 賢治は、盛岡高等農林学校の1年の時、級友を誘ってタッピング氏の聖書講座を聴講している。散策中に出会った賢治の印象深い感懐が、美しい街の風景と重なり、詩品高い文語詩となった。 この碑は、「賢治の詩碑を岩手公園に建てる会」によって、昭和45年(1970年)10月21日に除幕された。 |
岩手公園 「かなた」と老いしタピングは 杖をはるかにゆびさせど 東はるかに散乱の さびしき銀は聲もなし なみなす丘はぼうぼうと 青きりんごの色にくれ 大学生のタピングは 口笛軽く吹きにけり 老いたるミセスタッピング 「去年こぞなが姉はこゝにして 中學生の一組に 花のことばを教へしか」 孤光燈(アークライト)にめくるめき 羽虫の群のあつまりつ 川と銀行木のみどり まちはしづかにたそがるゝ |
月待つや独り 古城の松のもと |
宮野小提灯(本名=藤吉)は明治28年(1895年)盛岡市仙北町に生まれた。15歳頃から俳句に親しみ、大正3年高浜虚子主宰の「ホトトギス」に投句を開始。花鳥諷詠を信条とし、本格的に取り組む。 昭和5年県内の俳人に呼びかけ、山口青邨を選者とした『夏草』を創刊。以後『夏草』は平成3年5月まで通巻650号が発刊され、多数の後進俳人を育成した。 郷土を愛し、郷土を詠いつづけ生涯を市井の俳人として過ごした。豊かな詩情と朴訥とした表現は、時代を越えて人々の心に明りを灯し続けている。 昭和26年、この地に句碑が建立され、昭和33年には、岩手日報文化賞が贈られた。昭和49年7月7日、78歳にて永眠。 その人柄を示す句を誌す。 日もすがら蝉鳴くや山稼 夕寒や箕もて追はるゝ矯鶏二つ
盛岡市観光交流課 |