万年山宝徳寺は、万治元年(1658年)に開基されました。啄木はこの寺で幼少年時代を送りました。寺はその後改築されましたが、かつて啄木が愛した部屋は当時のまま保存されています。 裏庭には白蘋(はくひん)の池がありますが、中学時代に用いた号、白蘋はこれに由来しています。 境内には、父一禎の墓や歌碑、凌霄花(のうぜんかずら)の詩碑などがあります。 |
ふるさとの寺の畔の |
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ひばの木の |
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いただきに来て啼きし閑古鳥 |
啄木一家は、明治20年(1887年)に隣村日戸(ひのと)村の常光寺からこの寺に移り住み、啄木は満18歳までこの寺で過ごし、文学者としての要素を養っています。 「啄木」のペンネームは、境内の樹林をたたく啄木鳥から生まれとものです。 |
君が墓あるこの寺に |
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時告げ法の声をつげ |
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君に胸なる笑みつげて |
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わかきいのちに鐘を撞く |
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君逝にたりと知るのみに |
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がんばせよも美しき |
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み霊の我にやどれりと |
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人に知らねば身を呼びて |
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うつけの心の唖とぞ |
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あざける事よ可笑しけれ |
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啄木「凌霄花」より |
嘉永3年(1850年)、石川一禎は、岩手県岩手郡平館村(現八幡平市平舘)に生まれる。長じて曹洞宗の僧となり、宗門の師であり、歌人でもあった葛原対月の妹カツと結婚。 明治8年(1875年)、25歳で岩手県南岩手郡日戸村(現盛岡市玉山区日戸)の日照山常光寺の住職となる。その後、宝徳寺住職を務めた。 明治37年(1904年)、宗費滞納との理由で罷免される。 大正14年(1925年)、次女とらの夫山本千三郎が神戸鉄道局高知出張所長としてに赴任し、一禎も高知に移住した。 昭和2年(1927年)2月20日、所長官舎で76歳の生涯を閉じた。 |