鶴彬(つるあきら)本名を喜多一二といい、明治42年(1909年)1月1日に現かほく市高松町に生れた。 少年期より文才に優れ、地元新聞や各地の川柳誌に句を寄せているが、長じて井上剣花坊主宰の川柳人社同人として、その平和希求の立場から句・評論で頭角を現した。 昭和12年(1937年)、反軍反戦的理由で「川柳人」誌を発禁処分とした所謂「川柳人社弾圧事件」のあと同年12月に逮捕され、東京野方署に拘引、翌年の9月14日未釈放のまま獄中死した。享年29歳。
金沢鶴彬顕彰会 |
書を読まざること三日、面に垢を生ずとか昔しの聖は言つたが、読めば読むほど垢のたまることもある 體験が人間に取つて何よりの修養だと云ふことも言はれるがこれも当てにならない むしろ書物や體験を絶えず片端から切拂ひ切拂ひするところに人の真実が研かれる
秋声 |
昭和13年(1938年)、日本文学振興会が菊池寛賞制定。 昭和14年(1939年)、徳田秋声の『仮装人物』が第1回菊池寛賞。 |
地下鐵社内にて偶然高橋邦太郎氏に逢ふ。近年文壇に賞金の噂多し。菊池寛賞と稱するもの金壹千圓此度徳田秋聲之を受納せしと云ふ。高橋君の談なり。余は死後に至りても文壇とは何等の關係をも保たさゞ(ママ)らむことを欲す。余が遺産の處分につきては窃に考るところあり。今は言はず。
『斷腸亭日乘』(昭和14年3月10日) |
明治四年十二月二十三日金沢市横山に生る。二十七年尾崎紅葉の門に入り、處女作「藪柑子」を発表。「新世帶」「足迹」「黴」「あらくれ」「爛」の長篇を経て、晩年の逸品「仮装人物」「縮図」に至る実に五十年の永い作家生活の間、ときに神業を帶び又描寫の極地を示された。「挿話」「町の踊り場」「チビの魂」「死に親しむ」「勲章」等。 人間秋聲としては温籍典雅、相語るに愉しく、小説といふものは常に斯う書くものであるといふ稀有の域を後進に展いて見せられた。 絶 句 生きのびてまた夏草の目にしみる 秋聲 昭和十八年十一月十八日、東京本郷の居で永眠、享年七十三歳であつた。
昭和二十二年十一月十八日 室生犀星録す |
卯辰山の上の平地に、徳田秋声の碑。 生きのびてまた夏草の目にしみる。 秋声のは句碑ではない。いまも金沢の武家屋敷に残っている長土塀の一部を模して、それを文学碑とした。その左下にはめた三枚の陶板に秋声の略歴を記して、その最後をこの句で結んでいるのである。この句は佳句だ。 |
生長してから、孤独になりたい気持の動く時など、等はよく本を懐にして、時には登り口をもっと奥の方の春日山口のいくらか嶮しい方へかえたりして駆け登り、谷から聞えて来る薪割りの斧の音と、時雨のような松の枝葉の風の音を耳にしながら、草のうえに脚を投げ出していたものだが、小学生時代にも、この山は自分の庭のように行きつけになっていた。 |