2019年石 川

鶴来別院〜句佛の句碑〜
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白山市鶴来清沢町に鶴来別院がある。

鶴来別院の山門


真宗大谷派 鶴来別院のあゆみ

 真宗大谷派鶴来別院は、宗祖親鸞聖人が明らかにされた本願念仏のみ教えを聞法する道場です。

 当別院は、「大御坊」と通称された鶴来村の惣道場にその起源があります。

 鶴来の地は、白山に源を発する手取川が平地へ出て扇状地を形成する山地と平野の接点に位置し、良質な水が湧き、山の民と平野の民の交流の場所でもあり、地理的にも水利や交通、物流の要衝でもありました。

 戦国時代、加賀国四郡においては、本願寺第八代蓮如上人の子息が入寺した寺院を「御山」とよび各郡の真宗寺院の中枢となりました。鶴来別院の所在する旧石川郡には、現在、当別院が位置している清沢の地(現、白山市鶴来清沢町)に蓮如上人の七男蓮悟によって坊舎が創建され、清沢坊と称されました。蓮悟の後は蓮如上人十男の実悟が入り、本願寺から願得寺の寺号を許されました。清沢願得寺は、石川郡の「御山」として郡内一円の門徒の結集の中核になったのです。しかし、享禄4年(1531年)、「享禄の錯乱」といわれる一向一揆の内紛によって焼き討ちされ廃絶しました。

 別院の寺伝によれば、清沢坊が廃絶した後、天文年間(1532〜1555)に大御坊惣道場が建立されたと伝えられています。惣道場とは、村落全体の門徒の総意により共同で維持運営される念仏聞法の道場をいいます。その後、江戸時代を通じて鶴来における聞法の拠点として護持されてきました。

 明治13年(1880年)4月、金沢別院鶴来支院を公称することになったのを契機として当地の門徒によって新たな本堂建立の願いがおこされ、翌年3月には仮御堂が建てられました。

 鶴来地域の門徒の熱い懇念によって明治24年(1891年)10月に新本堂の建築が起工され、明治32年(1899年)に完成しました。

 明治36年(1903年)11月、金沢別院より独立して鶴来別院となりました。

 当別院は、加賀一向一揆以来、500年にもわたる真宗門徒の厚い信仰の伝統を継承する聞法の道場として現在に至っています。

鶴来別院本堂


 明治32年(1890年)、藤原安貞を棟梁として「本堂十分一之図」が作成され、翌年10月から金沢別院鶴来支院本堂の建設が始められます。8年の工期をへて同32年に完成しました。同36年には支院から昇格し、鶴来別院となりました。

 本堂は境内中央に西面して建ち、入母屋造平屋建桟瓦葺で正面に一間向拝をつけ、桁行9間、梁間8間、正側面に落縁を巡らし、屋根は勾配が急でたちが高い外観をしています。内部は外陣や柵内、内陣等からなる真宗本堂の典型的な配置となっており、屋根とともに天井高が高いのも特徴となっています。明治期に建築された木造建築物では、県内有数の規模を誇っています。

本堂の手前に句佛の句碑があった。



鶴来別院遠忌
句佛
この遠忌に
   確信の縁も
      木々の芽も

句佛は東本願寺二十三世門跡は彰如上人の俳号。諱は光演。

 大正8年(1919年)4月12日、彰如上人は親鸞六百五十回忌ご遠忌に参詣、色紙に一句をしたためた。

昭和12年(1937年)10月、板谷與十郎建立。

本堂の左手奥に梅嶺の句碑があった。


散るさ可里花の盛利や寺の萩

 梅嶺は米屋八代目で、碓井治郎左エ門と称した。月江庵一世。鶴来俳壇高根社の始祖。

明治元年(1868年)12月15日、歿。享年69。

昭和37年(1962年)、月江庵六世安居建立。

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