この一帯は源平争乱の舞台「篠原古戦場」です。寿永2年5月(1183年)、倶利伽羅の合戦の大勝の余勢をかって攻め立てる木曽義仲(源義仲)軍を相手に、敗走する平家軍の中で、ただ一騎、踏みとどまって戦ったのが斉藤別当実盛でした。実盛は木曽義仲幼少時代の命の恩人でしたが、これを秘し73歳という老齢の身を侮られないよう白髪を黒く染め、名乗りもあげす戦いました。しかし、奮戦むなしく手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最期を遂げてしまいます。そのなきがらを葬ったと伝えられているのが、ここ「実盛塚」です。伝説では、応永21年(1414年)に時宗14世遊行上人が篠原の地を巡錫行中、実盛の亡霊があらわれ救いを求めたので、上人が回向したらたちまち成仏したといわれ、世阿弥作の謡曲「実盛」でひろく世に知れ渡っています。
ここ「実盛塚」の周辺には、討ち取られた実盛の首を洗ったとされる「首洗い池」や実盛が髪を染める際に用いた鏡を安置したと伝えられる「鏡の池」など、実盛の伝説にまつわる場所があります。また、隣の小松市には、実盛の死を深くあわれんだ義仲が実盛着用の兜や鎧などを奉納し、供養を依頼した「多太神社」があります。
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森本之棗の句碑があった。

牡丹くずるゝ天地洞然たる中に
昭和54年(1979年)3月25日、越船俳句会建立。
眼前に咲き切った牡丹の散るのを眺めてこゝ篠原で勇ましく戦って最期を遂げた老武者斉藤実盛の晴々とした心境を思うて詠われた句である。
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