明治10年(1877年)7月12日、暁烏敏(非無)は明達寺に生まれる。 大正2年(1913年)10月19日、高浜虚子は初めて明達寺の暁烏敏を訪ねる。 |
その夜はお寺に泊つた。お母さんは在家のお母さんと同じやうな感じの暖い人であつた。茄子の鹽漬けを、鹽抜きにして煮たものを出された。南國生れの私には珍しかつたが、北國では珍しいものではなかつた。圍炉裏も大きかつた。大きな壺が二つか三つ灰の中に埋めてあつて、その一つは物捨甕(ものすてがめ)であつた。 爐の隅に物捨甕も置かれあり 虚子
「老いての旅」 |
大正8年(1919年)10月31日、斎藤茂吉は暁烏敏の説教を聴いている。 |
十月三十一日。光源寺にて暁烏敏師の説教を聽き、のち鳴瀧シイ ボルト遺跡を訪ふ この址にいろいろの樹あり竹林に冬の蠅の飛ぶ音のする |
昭和10年(1935年)、眼病を患う。 昭和21年(1946年)10月8日、虚子は明達寺一泊、翌9日ホトトギス六百号金沢俳句会。 |
後ちに私は再び明達寺を訪ふべく松任驛に下りた。その時、迎へに來てをつた一人の女性は永久(とわ)さんであつた。初對面の永久さんは餘り多くは語らず、一つの人力車に私をのせて梶棒を取り上げた。そして自ら挽きはじめた。髷の赤い手柄が少しほどけかゝつて風になびいてゐた。
「老いての旅」 |
盲ひたりせめては秋の水音を 十月九日 『ホトトギス』六百号記念金沢俳句会。盲悲無同 行。鍔甚。記念会で詠まれた句。 |
「ホトトギス六百号記念金沢俳句会。鍔甚」とある。前日明達寺へ暁烏非無さんを訪ねてゐる。その折の二句。「盲ひたりせめては秋の水音を」「秋晴や盲ひたれども明かに」が加はつてゐる。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
昭和24年(1949年)5月1日、虚子と立子は能登の旅を終え、明達寺の非無を訪ねた。 |
山吹の花の蕾や数珠貰ふ 老僧と一期一会や春惜しゝ 五月一日 加賀松任在、北安田、明達寺に非無を訪ひ永久 女を見舞ふ。
『六百五十句』 |
能登の旅も終り松任の明達寺へ非無師を訪ねた。野本永久(とわ)さんの病床を見舞ふ。父に「死ぬ時にこれをお持ちなさい」と、非無さんが数珠を下さる。兄にはお酒を入れなさいと瓢箪。私はおうすの茶碗を頂いた。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
五月一日。石川県北安田の明達寺は暁烏非無師の処で あつて、私共一行は前日の夕刻に金沢から自動車で明達 寺に非無師を訪れたのであつた。病気ときいてゐた野本 永久さんも元気を出して私共を出迎へられた。 翌朝早く起きて、貼れ渡つた朝空にそびえた境内の大 樹に鳴く鳩の声をきいた。 更衣おくれつゝまだ旅にあり
星野立子・未刊句日記 |
昭和26年(1951年)1月、暁烏敏は真宗大谷派の宗務総長に就任。 |
昭和28年(1953年)10月7日、虚子は立子、柏翠夫妻と共に非無和尚を見舞う。 |
稲の道車を駆りて故人訪ふ 十月七日 非無和尚を明達寺に見舞ふ。立子、柏翠夫妻と共 に。 |
昭和29年(1954年)、暁烏敏が生涯師と仰いだ清沢満之(きよさわまんし)の遺徳を偲んで、木像を安置するために法隆寺の夢殿を模して建立した。 |
私が最後に非無和尚を見舞つた時であつた。和尚の病氣は餘程惡いと聞いたので、山中温泉の俳句會を濟ませてから、その病床を見舞ふことにした。車には私、立子の外柏翠夫妻が乘つた。道は遠かつた。始めて小松といふ町を通過した。百萬石の田圃は果てしなく續いた。漸く北安田の明達寺の門前に著いた。
「老いての旅」 |
暁烏非無さんの御病気を見舞ひに柏翠夫妻の案内で明達寺へ。前夜は山中温泉の吉野屋に泊つた。病床から非無さんは手を差し延べられ、私等はそのお手を握つて見舞つた。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
旅にして秋風君の訃に接す 八月十九日 非無和尚逝去。
『七百五十句』 |
昭和32年(1957年)4月11日、虚子は墓参に明達寺を訪れ句碑を見ている。 |
嘗て手を握りし別れ墓参り 四月十一日 松任在北安田、明達寺。松任、聖興寺。金沢、 浄誓寺を訪ふ。
『七百五十句』 |
十二月四日 尚美会吟行 明達寺 大時雨北安田村訪るる
『芹』 |