加賀藩三代藩主前田利常公は寛永16年(1639年)に3藩(加賀藩、富山藩、大聖寺藩)分立して藩主を退任し、翌寛永17年に、一国一城令の特例として修築の認められた小松城に入城され万治元年(1658年)まで監国されました。小松城は梯川沿いの沼地に造成され、金沢城のほぼ2倍という広大なものでしたが、明治維新後の廃城令により取り壊され、二の丸・本丸跡地に創設された石川県第四中学校(現在の小松高等学校)の校地に保存されている小松城天守台が当時の面影を伝えています。右図は小松城と当社とのかかわりを示しています。利常公により明暦3年(1657年)2月25日に菅原道真公を祀る社として現在地に創建された小松天満宮は、小松城天守台の鬼門方向に立地(右図の黒線)し、利常公が在城した3つのお城(小松城、金沢城、守山城)を結ぶ線上に立地しています。また、白山山系の妙法山を越えて昇る冬至の日の出が神門を通り本殿に達するように社殿と神門(共に、国重要指定文化財)が配置されています(右図の赤線)。右図の白線は、安永9年(1780年)より5年間小松御城番を務めた富田景周の記す小松城の水回りを示しています。小松の町人板屋兵四郎を登用して辰己用水を完成させた利常公ですが、どのような仕掛けでこのように水を回していたのでしょうか。「小松城内分絵間図」(小松城のもっとも詳細な絵図面)と現行の国土基本図との比較検討により、小松城の水口は当社の十五重石塔(小松市指定文化財)の真南(右図の白点線)にあったことが判明しました。十五重の塔は大変めずらしいものですが、頂上部に相輪でなく宝珠をもつことから仏塔として建立されたものではありません。本石塔は社殿の東方に黒色の坪野石を使用して建立されており、また、十五重塔に面する水口より水をとりいれ、北から南へ、また東から西にまわしてから城内側の堀に流したり、本丸の南西方より流出させる等の遣水の方法より、小松城の作事には、利常公が所持していたと推定される『作庭記』(日本最古の庭園書)の影響が窺われます。
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十五重の石塔

十五重の石塔秘話