高山右近の指導により、西丁口(現在の黒門口)にあった大手を尾坂口に移したと伝える。 大きな櫓台石垣が残っているが、櫓や長屋が記載された資料はなく、屋根付きの門(櫓門)が設けられていた。 |
巨大な割石を使った石垣です。巨石は「鏡石」と呼ばれ、一般には城の正面によく用いられました。金沢城の石垣の中で最大の石もこのなかに組み込まれています。尾坂門が大手門だったことを示す一つの証拠と見られています。 |
金沢城は犀川と浅野川に挟まれた細長い丘陵地帯である小立野(こだつの)台地の先端に築かれた平山城で、本丸の標高は約60m、城下町との標高差 は約30mである。主要な範囲は、本丸、二ノ丸、三ノ丸、新丸、金谷出丸とこれらを取り囲む堀の範囲で、総面積は約30ヘクタールに及ぶ。 城となる前は加賀一向一揆の拠点として金沢御堂が天文15年(1546年)に置かれていたが、天正8年(1580年)に織田信長の重臣柴田勝家の軍勢により攻略され、その指揮下にあった佐久間盛政が最初の金沢城主になった。その後、天正11年(1583年)に前田利家が能登七尾から移り城主となった。 次いで慶長3年(1598年)に利家の長子利長が城主となり、これ以降、加賀・能登・越中3カ国(現在の石川県と富山県の大部分)を領し、江戸時代を通して最大の大名であった加賀藩前田家の居城として発展した。 利家、利長時代の城の姿は不明な所が多いが、天正14年(1586年)頃に天守を創建したという史料が残る。現在の本丸、二ノ丸、三ノ丸などの配置は寛永8年(1631年)の大火後に3代藩主前田利常により整備された姿である。宝暦9年(1759年)の城下町最大の大火により城の建物の大半が焼失し、その後は再建されない 建物も多かったが、現存する石川門と三十間長屋は江戸時代に 再建されたもので、鉛瓦や海鼠壁など金沢城の特色 をよく表す建物である。 明治維新を迎えると藩主は城外に移り、城は軍用地となった。第二次世界大戦後は金沢大学の城内キャンパスとして利用されたが、大学移転後の平成13年(2001年)に県営都市公園として一般に開放され、城郭施設の復元整備が進められている。 金沢城跡は近世城郭としての縄張りや高い技術によって構築された石垣が良好に残る 代表的な近世城郭の一つで あり、近世の大大名の政治権力や築城技術を知るうえで 重要であることから、平成20年(2008年)に史跡に指定された。 |