『曽良書留』では「海士がつま」、『雪満呂気』、『蕉句後拾遺』では「海士が家」。 7月23日(陽暦9月6日)、芭蕉は金沢の俳人雲口に誘われて、宮ノ越に遊んだ。 |
一 廿三日 快晴。翁ハ雲口主ニテ宮ノ越ニ遊。
『曽良随行日記』
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西浜にて |
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小鯛さす柳すゝしや海士か妻 | 翁 |
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北にかたよる沖の夕立 |
銭屋五兵衛は北前船で財をなし、「海の百万石」と呼ばれた。宮腰は北前船の中継港であった。 |
舊友今村次七君金澤より上京。路地裏の寓居に來訪せらる。今村氏の家は錢屋五兵衞とは遠き縁つゞきの由。金澤市外の海岸なる街道筋に一株の古松あり。徃昔錢屋の一族處刑せられし時、五兵衞の三男要藏といへるもの湖水埋立の名前人なりしかば、罪最重く、この街道にて磔刑に處せられたり。其の頃には松多かりしが次第に枯死し、今はわづかに一株を殘すのみ。人々これを錢屋の松と稱へ、金澤名所の一つとはなれり。今村君こゝに石碑を建て、古枩の名の由来を刻して後世に傳へたしと、こまごま語り出されたる後、余に古松の命名と碑文の撰とを需めらる。余はその任に堪えざれば辭したり。
『斷腸亭日乘』(大正8年5月18日) |
鴨暮れて錢屋五兵衛を空しうす
阿波野青畝『除夜』 |