加賀市指定文化財(史跡) |
大聖寺町西端の標高約67メートルの錦城山に所在する平山城である。『太平記』以降、南北朝・一向一揆の争乱の中に攻防の場として文献にたびたび登場している。 織田信長の支配以後は戸次広正、拝郷家嘉が置かれ、柴田勝家没後は豊臣秀吉の部下溝口秀勝が、その後山口宗永が領した。慶長5年(1600年)関ヶ原の役で西軍に組した山口宗永は、東軍側の前田利長の攻撃を受け、同年8月3日宗永軍は敗れた。 寛永16年(1639年)に成立した大聖寺藩は城を造らず、一般人の入山を禁止し、自らは麓に館を構えたので保存状態は良かった。 本丸・二の丸・三の丸・東丸・馬洗池や土塁などに山城の面影を残し、近年、遊歩道が整備されて散策を楽しむことができる。
加賀市教育委員会 |
明治元年明治新政府より越後戦争の弾薬供出を命ぜられた大聖寺藩はこの洞穴の中で贋金を製造した。 銀製品を溶かし弐分金を造り山代温泉の湯に浸し通貨として広く通用し政府の命を果たした後に露見に及び製造責任者市橋波江に切腹を命じた。然し子息には倍の禄を与えて功に報いた。この事件をパトロン事件という。
(注 パトロンとは弾薬の意) |
標高約67メートルの錦城山には、南北朝以後大聖寺城が構築され、加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていた。現在の配置は豊臣秀吉家臣の溝口秀勝が天正11年(1583年)大聖寺領主となって4万4千石で封ぜられた頃に修築したと推定される。本丸を始め二の丸・鐘ヶ丸などが巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防御を固めていた。慶長3年(1598年)溝口秀勝が越後新発田に転封したのち、小早川秀秋の重臣であった山口玄蕃頭宗永が7万石の領主として入城した。 慶長5年(1600年)、金沢の前田利長は徳川方につき、山口玄蕃は豊臣方となって敵対した。同年8月3日早朝、山口軍1200に対して、前田軍は2万5千の圧倒的兵力で攻めたて、山口父子を始め多くの将兵が討死した。殿閣を焼く煙は天にそびえたという。落城後前田利長は、すぐに修築し城代を置いたが、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となり、以後再建されなかった。 藩政時代はお止め山として、一般人の入山を禁止したため自然回帰し、鹿や猪も生息していたという。現在でも貴重な動植物が多く、秋の黄葉の美しさから明治時代以後、「錦城山」と呼ばれ親しまれてきた。 なお、大聖寺という地名は、古代から中世に栄えた白山五院の一つ、大聖寺という寺名からといわれている。
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