加賀の千代は白嶺を仰ぐ松任町の表具師福増屋六兵衛の娘として元禄16年に生まれた。その天性の文才は支考や麦林らに啓発され諸国の風雅人と交わり俳道に一意精進した。晩年には尼となり素園と号し蕉風の真髄に徹し清澄な俳壇と法悦に浸りつゝ安政4年9月8日73才で没した。こゝにその徳を頌えて文名の永遠に伝わると共に新しい世代へのつながりを信じ竹谷蒼郎誌す。 |
加藤楸邨は少年時代、父が国鉄に勤務していた関係で各地を転々としたが、父の病気により母の郷里である金沢に移り、金沢一中を卒業後、大正12年から大正14年春まで松任小学校の代用教員の職に就いている。 |
福わらや塵さへけさのうつくしき |
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よき事の眼にもあまるや花の春 |
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鶴のあそび雲井にかなふ初日哉 |
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梅か香や鳥は寝させて夜もすがら |
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鶯やこゑからすとも富士の雪 |
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手折らるゝ花から見ては柳哉 |
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吹け吹けと花によくなし鳳巾 |
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見てもとる人には逢す初桜 |
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女子とし押てのほるや山さくら |
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竹の子やその日のうちに独たち |
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姫ゆりや明るい事をあちらむき |
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夕かほやものゝ隠れてうつくしき |
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唐崎の昼は涼しき零哉 |
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稲妻のすそをぬらすや水の上 |
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朝かほや起こしたものは花も見ず |
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名月や眼に置ながら遠ありき |
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月見にも陰ほしがるや女子たち |
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初雁や山へくれば野にたらす |
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百生やつるひと筋の心より |
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朝ゝの露にもはげす菊の花 |
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降さしてまた幾所か初しくれ |
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朝鮮人来朝御用上ル |
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唐紙御懸物六幅 |
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あふぎ十五本 |
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宝暦十三末の八月書 |
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千代尼素園 |
高麗舟のよらで過ぎゆく霞かな | 蕪村 |
東アジアの平和で安定した国際環境のなかで宝暦13年(1763年)、徳川家治の将軍職襲位を賀するために第11次朝鮮通信使が訪日することになった。幕府は、国賓としてもてなすべく準備にとりかかり、その接待役を加賀藩十代藩主前田重教に命じた。重教は朝鮮国への贈り物を種々考慮された上で、日本の中で最も有名な女流俳人千代尼の発句を朝鮮からの使節に贈ろうと、千代尼に白羽の矢が立った。早速、重教は幕府に千代尼墨跡献上を申し出、許可され、千代尼に墨跡をさしだすように、との御下命を賜ったのである。 |
前田にて |
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仰向いて梅をながめる蛙かな | 千代尼 |
精神的魅力を持ち、発句ひとすじの千代尼は名誉この上ない喜びで、61歳まで詠んできた句の中から21句を厳選して、淡々とした筆さばきで、枯淡の風格がある自家表装の掛物6幅、扇子15本を同年8月、幕府におさめたのである。第11次朝鮮通信使(正使チョ・オム)は、同年10月6日に対馬に到着。同14年(改元明和元年)2月27日、江戸城で将軍家治に謁見し、交隣外交を深め、千代尼の作品を土産に、6月22日、朝鮮に帰国した。この年に、海を越えた発句(俳句)は珍しく千代尼とその作品が国際交流の先駆けとして多大な貢献をしたことは忘れてはならないのである。 |
この建物は、明治初期の建築で加賀地方特有の妻入り民家です。 表門は銅板葺きの平唐門で柱の面取りなどに宮大工の作り方が見られるなど質の高いものです。 内部は、オエ(オイ)と田の字形による加賀地方の農家住宅の発達した平面形式が執られています。 オエには囲炉裏があり、ケヤキによる太い柱、指し鴨居、帯戸、貫と白漆喰、上部の縦横に組み構造美を示す5本の太い梁の構成に、当時の大規模な農家住宅の特徴が見られます。 また、この建物は庭園(紫雲亭)と調和し、池や灯籠さらには全国的にも珍しい紫雲石が配置されています。 |
「白山グランドホテル(旧グランドホテル松任)」の洋風キッチンa・n・t・o(あんと)で遅めの昼食をとった。 |