「首洗池」から北陸自動車道片山津ICに入る前に、安宅の関址に立ち寄ることにする。 |
源平壇の浦の合戦で平家を西海に沈め、その殲滅に大功のあった源義経は、生来の猜疑心からこれを退けようとする時の征夷大将軍兄頼朝に追われ、奥州平泉へ落ちのびようとした。 頼朝はこれを捕えようと各地に新関を設けたが、当安宅の関には富樫左衛門尉泰家を関守に任じ厳重警戒に当らせていたところ、文治3年3月の頃、山伏姿に身を変えた義経弁慶以下主従12人が通りかかった。 一行の山伏姿を関守富樫に疑われ、東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧と称し、勧進帳(寄付帳)の空読みを行なった弁慶の機知、さらに強力(荷役人夫)姿に身を変えた義経が咎められるや疑念をはらすため金剛杖をもって主義経を打ち据えるに至り、富樫は弁慶の忠誠心にうたれ主従の通行を許すに至る。 物語は弁慶の智、富樫の仁、義経の忍勇が混然と一体に融合した美談として歌舞伎「勧進帳」で演ぜられ、後世国民の鑑として広く世に知られているものである。当時の関所跡である当所にその銅像を建立し、当時の面影をしのぶべく歌舞伎十八番「勧進帳」終幕の段で通行を許され喜び勇んで六法を踏み退場しようとする弁慶とこれを見送る富樫の場を、二代目市川左団次(富樫)、七代目松本幸四郎(弁慶)をモデルに、元日展審査員都賀田勇馬氏の手により制作されたものである。 嗚呼住の江の行き逢ふは 私心離れた三つの大霊(たま) 智、仁、忍勇の鑑(かがみ)とて 永遠(とわ)に輝く国の礎
財団法人 安宅観光協会 |
元禄16年(1703年)秋、岩田涼菟は安宅の関跡を訪れている。 |
安宅の浦にて 案山子にはよも目は懸し關の前 |
正徳4年(1714年)、岩田涼菟は曽北を伴い再び北国行脚。 |
安宅懐旧 |
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先 達 | 涼菟 |
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享保6年(1721年)、露川は門人燕説を伴って北越地方を行脚。安宅の関址で句を詠んでいる。 |
安宅舊關 |
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麥秋の關はゆるさじ勸化牒 | 居士 |
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盗人の關に繩とや瓜ばたけ | 無外 |
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明和8年(1771年)、加舎白雄は「北越紀行」の旅で安宅の関跡を訪れている。 |
関の跡は海と成つゝ、うき洲の松のあらし也。こゝに関のあとだにもといひ捨ておのこは舟に乗ける。 鯖うちの関路を越る安宅哉 |
昭和8年(1933年)11月8日、与謝野寛・晶子夫妻は金沢から安宅神社へ。 |
松のなか安宅の宮のましましぬ比べて云はじ関の跡など 仮の関あらぬ世なれど安宅にて我等を停む松と浪おと 小石をも安宅の浜に拾ふなりこの国のことなつかしきため いにしへの関のあとなど安宅にて秋に語るもあはれなるかな 浪しろく安宅の浜につらなりぬ修験ら来んと待つ袖のごと 義経の持物と云ふ椀なども安宅に見れば敬へり人 |
松おほき安宅の沙丘(しやきう)そのなかにきよきは文治三年の關 住吉の神をかしこみしりぞきて富樫の据ゑし新關のあと しらぎぬを重ねて波の寄る安宅新關守に怪しまれんぞ 義經記の作者も聞きしここちするよき北海の波の音かな
「いぬあじさゐ」 |