善樂寺は孝徳天皇の大化年中(645〜649)に天竺の高僧法道仙人が開創した。天台宗の大寺院で、明石では最も古い寺である。 平清盛ゆかりの地でもあり、源氏物語の舞台にもなるほど知られたところであった。 寺伝によると、平安時代中期の天喜元年(1053年)10月26日に住職だった源泉法師が延暦寺第三十一世座主になられている。短期間の座主ではあったが、当時の勢力を物語る出来事であった。しかし、元永2年(1119年)には火災で堂塔を焼失した。 それから三十余年のちの保元元年(1156年)、播磨守に任じられた平清盛はこの地を重視し、善樂寺のすべての堂塔伽藍を再興、念持仏であった木造の地蔵尊と寺領500石を寄進した。この付近は当津と呼ばれる庄村で、海路の要衝であったためといわれる。 それ以来、ここの中心寺院として栄え、平安時代末期には17ヵ院を持ち、寺域も北は樽屋町、東は材木町にわたる約1`平方という広大なものだった。 このころ当寺には、清盛の弟の教盛の子忠快法印が寺僧としており、源平合戦の最中である養和元年(1181年)に亡くなった清盛の供養のため、巨大な五輪塔を建てた。戦国時代の天文8年(1539年)には再び戦乱のなかで、本堂などを焼失、文禄2年(1593年)に再建している。 江戸時代には明石藩から黒印を与えられ、数々の寄進を受けた。諸役の免除が行われました。五代藩主松平忠国は源氏物語の世界ここにみて明石入道の碑を建てた。淡路島を前に美しい寺であったのだろう。境内の美しい松にも「光源氏明石浦之浜之松」の名がつけられた。このため、全国から文人墨客が訪れ、多くの書画を残したという。 昭和20年(1945年)7月7日、戦災によって三たびすべてを焼いた。本堂、仏像、寺宝など灰燼に帰した。同53年12月、昭和の再建がはじまり、まず十王門が復活、同63年3月30日、4度目の復興をなし遂げた。現在も明石有数の寺院として訪れる人は絶えない。 |
高さ3m36cmの花崗岩の五輪塔で堂々たる風格をもちます。 善楽寺は寺伝によると大化年中、法道仙人開基といい、明石で一番古い寺です。平清盛は寺僧に自らの念持仏と寺領500石を与えました。この五輪塔は、養和2年(1182年)春、清盛の甥の忠快律師がこの寺の僧であった時、清盛の厚恩に報いるため建立したものといわれています。 明石の石造物として価値が高く、鎌倉時代の特色を示すものです。
明石市教育委員会 |
杉村楚人冠 作詩
船橋栄吉 作曲 ただ一面に立ちこめた 牧場の朝の霧の海 ポプラ並木のうっすりと 黒い底から勇ましく 鐘が鳴る鳴るかんかんと もう起き出した小舎小舎の あたりに高い人の聲 霧に包まれあちこちに 動く羊の幾群の 鈴が鳴る鳴るりんりんと 今さし昇る日の影に 夢からさめた森や山 あかい光に染められた 遠い野末に牧童の 笛が鳴る鳴るぴいぴいと |
明治5年、作詩者杉村楚人冠は和歌山市に生れる。本名廉太郎。 明治42年冬福島県鏡石の岩瀬牧場を訪れ、その情景を「牧場の朝」の詩に描いた。 |
明治22年、作曲者船橋榮吉は兵庫県明石市に生れる。 昭和7年12月、「牧場の朝」「新訂尋常小学唱歌(四)」初出。 昭和7年12月22日、43才で没す。戒光院船橋家墓所に眠る。 |
宮本武蔵は、元和4年(1618年)明石藩主小笠原忠真の客分として明石に迎えられ、同年、明石城の築城が始まると、明石城下の町割を担当するとともに、作庭にもその才を発揮し、明石城の樹木屋敷やこの圓珠院の庭園の作庭に当たったと伝えられています。 この庭園は本堂の前方を背に位置する枯池枯山水庭園です。 元々は離れ座敷が北側にあり、庭はこの離れ座敷や書院からの視点を考慮して作庭されています。 全体的にみて、小規模ではあるが、平面構成を重視し、視点による変化を持たせたまとまりのよい庭園です。 圓珠院のほか、明石市上ノ丸にある本松寺の庭園も武蔵の作と伝えられています。 |