この生田川公園を中心にした賀川豊彦の文字通り体を張った活動は、自伝小説「死線を超えて」に著され、当時のベストセラーとなりました。「死線を超えて我は行く」の死線は、病を克服するだけでなく、貧困、権力、社会悪、戦争、暴力と戦い、それを超えて進んで行く考えを表したものです。
その後、彼は労働組合や農・漁民組合、生活協同組合など、社会のあらゆる分野に影響を与えました。また、国際的な平和運動への呼びかけは、今日の国連やECの思想・活動にも深く影響しています。
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賀川豊彦は知らなかった。
鈴木重嶺(しげね)の歌碑があった。

くりかえし
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見てこそ行かめ
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山姫の
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とる手ひまなき
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滝の白糸
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鈴木重嶺(文代2年(1814)〜明治31年(1898))江戸末 明治期歌人。
江戸幕府末期の役人で、維新頃の官職にもついた。後、歌道に精進し明治28年(1895年)短歌結社「鶯蛙(げいあ)吟社」を結成し、歌誌「詞林」を発行した。この「詞林」は後年「心の花」に吸収合併された。
この歌、「山の女神が手も休めずに白糸をくりかえし繰るようにくり返し眺め楽しんで行こう」と繰る、糸の縁語をからませた技巧歌である。これまた布引の滝は人工美でなく、造化の女神の手になったとその美しさを讃えているのである。 |
賀茂真淵の歌碑

布引の
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滝のたきつ
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瀬音にきく
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山のいはほを
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今日見つるかも
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賀茂真淵(元禄10年(1697)〜明和6年(1769))江戸期 国学者・歌人。
遠江の人、京都で荷田春満(かだのあずままろ)に国学を学び江戸に出て古典研究につとめた。和歌においては古風を尊重、万葉調を重要視した。多くの門下生があり、本居宣長・村田晴海・橘千蔭など優れた学者が輩出した。その一門を屋号県居(あがたい)にちなみ県門と称した。
この歌は賀茂翁家集に「知人の家に布引の滝の岩の断片が置いてあるのを見て」といった詞書があるので歌意は明らかである。第3句滝音をひびかせて有名なとつづけている。結句など万葉調であろう。 |
国学者は、よく分らない。
御幸橋を渡り、HATゆめ公園へ。
藤原公実(きんざね)の歌碑があった。

世と共に
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こや山姫の
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晒すなる
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白玉われぬ
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布引のたき
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藤原公実(天喜元年(1053)〜嘉承2年(1107))平安朝歌人。
大納言実季(さねすえ)の子で権大納言であった。和歌にすぐれ堀河朝の代表歌人とされている。後拾遺集以下の勅撰集に57首入集している。
この歌は例の栄花物語の関白師実布引遊覧の時の歌である。「世と共に」は世があると共にいつまでもとの意、「こや」はこれやで、これこそ山姫の晒す布とつづき、「白玉われぬ」は白玉のような水しぶきがとび散っている様で、この素晴らしい布引の滝の風景は山の女神の手になるものと、その神秘性を表している歌である。 |
源雅実(まさざね)の歌碑

たちかへり
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生田の森の
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幾度も
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見るとも飽かし
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布引の滝
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源雅実(康平2年(1059)〜大治2年(1127))平安朝歌人。
右大臣顕房(あきふさ)の子で太政大臣となった。久我(こが)氏の祖で久我太政大臣といわれる。金葉集以下に5首入集する。
この歌もまた栄花物語の歌。第1・2句は同音のくりかえしによって「いたびも」へとつづく序詞である。生田の森は枕草子にも讃えられている神戸の名勝である。これによって布引の滝が神戸のそれであることが確認されるのである。いくら見ても飽くことのないわが布引の滝である。 |
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