業平忌思ひ業平橋渡る
『さゆらぎ』 |
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
在原業平朝臣 |
むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮ヘなむおはしましける。その時右馬頭なりける人を常に率ておはしましけり。時世ヘて久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで酒をのみ飲みつゝ、やまと歌にかゝれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りて、かざしにさして、かみなかしもみな歌よみけり。馬頭なりける人のよめる、 世のなかに絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし となむよみたりける。また人の歌、 散ればこそいとゞ桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき とて、その木の下はたちてかヘるに、日暮になりぬ。
『伊勢物語』(第八十二段) |
日本文学史上、歌物語の代表作『伊勢物語』、歌に生きた在原業平の華麗な生活とともに、芦屋の里の美しい情景が紹介され、歌名所として著名となった。 業平の別荘がどこにあったか、近世の地誌には芦屋川の左岸、業平町付近に、その位置を示している。業平の父、阿保親王がこの地で亡くなったとの伝えもあり、翠ヶ丘町には阿保親王塚がある。 謡曲『雲林院』の舞台となった芦屋の公光(きんみつ)と業平を祀る祠も月若公園の近くにある。 文学と伝承に彩られた芦屋は、とおく平安のむかしから今日まで、人びとの心に様々な親しみと共感を呼んでいる。 ここにこの由来を継承し芦屋市制50周年を記念し、市及び50周年を祝う会協賛のもと芦屋市各種団体、市民の協力募金によって在原業平の歌碑を文化史蹟としてこの地に建立するものである。
葦屋文化友の会 |
むかし、男、津の国菟原の郡蘆屋の里にしるよしして、いきて住みけり。昔の歌に、 あしの屋のなだの塩焼きいとまなみ黄楊の小櫛もささず来にけり とよみけるぞ、この里をよみける。ここをなむ蘆屋の灘とはいひける。この男、なま宮仕ヘしければ、それを便りにて、衛府佐ども集り来にけり。この男のこのかみも衛府督なりけり。その家の前の海のほとりに遊びありきて、「いざ、この山のかみにありといふ布引の滝見にのぼらむ」といひてのぼりて見るに、その滝、ものよりことなり。ながさ二十丈、ひろさ五丈ばかりなる石のおもて、白絹に岩を包めらむやうになむありける。さる滝のかみに、わらふだの大きさして、さしいでたる石あり。その石のうヘに走りかゝる水は、小柑子、栗の大きさにてこぼれ落つ。そこなる人にみな滝のよます。かの衛府督まづよむ。 わが世をばけふかあすかと待つかひの涙のたきといづれたかけむ あるじ、つぎによむ。 ぬき乱る人こそあるらし白玉のまなくもちるか袖のせばきに と読めりければ、かたヘの人、笑ふことにやありけむ、この歌にめでてやみにけり。かヘりくる道遠くて、うせにし宮内卿もちよしが家の前くるに日暮れぬ。やどりの方を見やれば、あまのいさり火おほく見ゆるに、かのあるじの男よむ。 はるゝ夜の星か河辺の蛍かもわが住むかたのあまのたく火か とよみて家にかヘりきぬ。その夜、南の風吹きて、浪いとたかし。つとめて、その家の女のこども出でて、浮海松の波によせられたる拾ひて、家のうちにもてきぬ。女がたより、その海松を高坏にもりて、かしはをおほひていだしたる、かしはにかけり。 わたつみのかざしにさすといはふ藻も君がためには惜しまざりけり 田舎人の歌にては、あまれりや、たらずや。
『伊勢物語』(第八十七段) |
貞観5年(863年)、在原業平左兵衛権佐。 貞観6年(864年)3月8日、在原行平左兵衛督。 |