寿永2年(1183年)7月、平忠度は自分の選んだ秀歌100首余りを巻物として藤原俊成の邸宅に持参した。 |
寿永3年(1184年)2月7日、源平一ノ谷の戦いに敗れた薩摩守忠度は、海岸沿いに西へ落ちていった。 源氏の将の岡部六弥太忠澄は、はるかにこれを見て十余騎でこれを追った。忠度につき従っていた源次ら4人は追手に討たれ、ついに忠度は1人になって明石の両馬(りょうま)川まできた時、忠澄に追いつかれた。2人は馬を並べて戦い組討ちとなる。忠度は忠澄を取り押さえ首をかこうとした。忠澄の郎党は主人の一大事とかけつけ、忠度の右腕を切り落とす。「もはやこれまで」と、忠度は念仏を唱え討たれる。箙に結びつけられた文を広げると 「行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度」 とあり初めて忠度と分かった。敵も味方も、武芸、歌道にもすぐれた人を、と涙したという。清盛の末弟の忠度は、藤原俊成に師事した歌人であった。年齢は41歳。忠度が馬を並べて戦った川をその後、両馬川と呼ぶようになり、つい最近まで山電人丸前駅の北に細い流れが残っていたが、埋められて暗渠になってしまい、昔を偲ぶよすがもない。 腕の病に霊験あらたかだとお参りする人が絶えず、いま神社にある木製の右手で患部を撫でれば、よくなるといわれている。これは地元の彫刻家が彫って奉納したものである。山電の線路脇に忠度の腕を埋めたという小さい祠があった。昭和59年3月、山電の高架化工事のため東30メートルの位置に移されたものが現在の腕塚神社である。町名もこれに因んで右手塚(うでづか)町と称していたが、天文町に変更された。時代の流れとはいえ歴史や伝説が消えていくのは惜しい。 地元の天文町右手塚自治会が、年間を通じて献花・清掃などに奉仕しているが、毎年3月の第1日曜日に氏神の神官と共に祭礼を行い、謡曲『忠度』を連吟で奉納して忠度を偲ぶ習わしである。謡曲の奉納は神社が現在地に移ってからであるが、みたまを祭るご奉仕がいつの頃から始まったものか地元の古老も知らないから、その起源は随分昔に違いない。地元民としては子子孫孫に至るまで神社奉仕が伝承されることを切に願うものである。 |
文治4年(1188年)4月22日、『千載和歌集』完成。「平忠度」の一首が「読み人知らず」として載せられた。 |
其後、世しづまッて、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありしあり様、言ひをきしことの葉、今更思ひ出でて哀也ければ、彼巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれ共、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、故郷花といふ題にてよまれたりける歌一首ぞ、「読人知らず」と入られける。 さゞなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな 其身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずと言ひながら、うらめしかりし事ども也。
『平家物語』(忠度都落) |
金将の駒 |
拾ふたり花の辻 |