2021年兵 庫

忠度公園〜前田純孝の歌碑〜
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明石市天文町に忠度公園がある。

冬の歳時記園


白真弓石辺の山の
 常磐なる命なれやも
    恋ひつつをむ

『万葉集』(巻第11)の歌である。

JR草津線石部駅前に歌碑がある。

前田純孝(すみたか)の歌碑があった。


風ふけば松の枝鳴る
枝なれば明石を思ふ
妹と子を思ふ

前田純孝絶筆

平成16年(2004年)2月、建立。

 前田純孝(翠溪)(1880−1911)は、兵庫県二方郡浜坂町諸寄に生まれる。御影師範学校から東京高等師範学校、国語・漢文部に学んだ人である。

 昭和2、30年代、歌の世界は革新の時代であった。与謝野鉄幹・晶子は「新詩社」を起こし『明星』を発刊して文芸に新しい風を吹きこんでいた。若き翠溪も啄木と共に明治ローマン主義運動のなかで活躍した群像の一人であった。

 高師卒業後は26歳で大阪府立島之内高等女学校(現・大阪府立夕陽丘高等学校)の初代教頭としてに赴任するが、結核に冒され、大阪住吉、妻の実家、明石忠度町(現・天文町)に転地療養するが病いえず、一人ふるさとへ帰っていく。

 職を失い業病にとりつかれた翠溪は、失意のどん底にあって童謡・唱歌を作り稿料を得て薬餌に当て細々と生きていく。

 薄汚れた病床日記がある。

 苦悶の中に生と死を凝視する直截壮絶な哀歌の数々を遺していく。

寂しきは破れし障子海の音手なる小鏡われが唇

何故に猶生くべきかかかることを思ひつつあり蝿の飛ぶ見て

 病状は進行していく。

 翠溪、最期の歌は明石にのこす妻と子を思う慕情の歌であった。

 夭逝、31歳でこの世を去った翠溪を悼む恩師、学友、社友によって一冊の歌集『翠溪歌集』がのこされている。

若き人はやく世になしその歌はしら玉のごと後をてらせど

夏の雨純孝の君ありし日の病のころのはなしなど聞く

(与謝野晶子・追悼歌)

 別離をよぎなくされた純孝(翠溪)最期の思いを歌碑にしてのこすことになった。この町に住む市民の幸せを祈り、歌碑建立のいきさつを誌しておくことにする。
兵庫県浜坂町
前田純孝の会

前田純孝の歌碑は、あまり知られていないようだ。

忠度公園から東に行くと、忠度塚があった。


   忠度塚

寿永3年(1184年)、一の谷の戦に敗れた平氏の将、薩摩守忠度が両馬川まで来たところ、源氏の将武蔵国(埼玉)の岡部六弥太忠澄に討たれ、その亡骸を埋めたところと伝えられる。

   平忠度(1144〜1184)

清盛の弟、小四位下、薩摩守となる。藤原俊成に師事し和歌をよくした。平家西走の途中京都に引き返し俊成に詠歌一巻を託した話は有名。

明石教育委員会

明石駅から見た明石城


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