2021年兵 庫

円教寺〜碑巡り〜
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奥の院から金剛堂に向かう。

円教寺鐘楼


袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。寺記によれば、鐘楼は元弘2年(1332年)に再建、鐘は元亨4年(1324年)に鋳造とされる。いずれも確証はないが。形や手法から14世紀前半のものと推定されている。鎌倉時代後期の様式を残す鐘楼として県下では最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重である。

法華堂


法華三昧堂といい、創建は寛和3年(985年)に播磨国司藤原季孝によって建立された。

もとは檜皮葺きであった。現在のものは、建物、本尊ともに江戸時代の造立。昔は南面していた。

●姫路城主・榊原家の墓所●


 榊原家は、江戸時代初期と中期の2回にわたって姫路城主になりました。

前期、榊原忠次・政房
 慶安2年(1649年)〜寛文7年(1667年)

後期、榊原政邦・政祐・政岑・政永
 宝永元年(1704年)〜寛保元年(1741年)

 ここの墓所には、上の城主のうちの政房と政祐の2人の墓碑が並んでいます。
 政房は寛文5年(1665年)に父忠次のあとをつぎましたが、わずか2年後に27歳で亡くなりました。政房の墓碑には故刑部大輔従四位下源朝臣と刻んであります。

 政祐は享保11年(1726年)父政邦のあとをついで5年余り、後の28歳でなりました。墓碑には故式部大輔従四位下源朝臣と刻んであります。

 両墓碑とも政祐の養子政岑が享保19年(1734年)に建てました。忠次・政邦の墓所は姫路市内の増井山にあります。

金剛堂


国指定重要文化財である。

三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂であった。内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天井には天女などの絵が描かれている。

性空上人は、この地において金剛菩薩にお会いになり、密教の印を授けられたという。普賢院は永観2年(984年)の創建で上人の居所で会ったと伝えられるが、明治40年、明石長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却された(戦災で焼失)。本尊の金剛菩薩像は、現在、食堂に安置されている。

瑞光院


創建年代は不明だが、現存する圓教寺塔頭六院の一つであり、信者の組織である網干観音構の宿舎でもある。摩尼殿のある中谷から三つの堂のある西谷に向かう途次にあり紅葉の名所として知られ、向かいに大黒堂と歌人初井しずゑの歌碑がある。

姫路市教育委員会

大黒堂


歌碑は見当たらない。

高浜年尾の句碑があった。


歌塚の四季を訪はんと思ふ秋

昭和57年(1982年)7月11日、播磨ホトトギス会建立。

   句碑縁起

 年尾先生御発願に依る西国観音札所探勝吟行(昭和44年9月15日)の砌の御作

 奥の院山内にある和泉式部の歌塚を詠まれたもの

もう一つ小さな句碑があったが、よく読めなかった。


少し下ると、初井しずゑの歌碑があった。


渓流のたぎちに低く迫り咲く赤き椿は水に散るべし

歌碑の部分を拡大。


初井しづ枝は明治33年(1900年)、姫路市大黒町に生まれた。

北原白秋門下の歌人にてコスモス短歌会創立同人。昭和41年(1966年)、兵庫県文化賞、昭和45年(1970年)、姫路市文化功労賞、昭和46年歌集「冬至梅」にて読売文学賞受賞。

昭和51年(1975年)、姫路市竜野町に没す。

(コスモス短歌会姫路支部)

知らなかった。

摩尼殿を見上げる。


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