神姫バス姫路駅前案内所で「書写山ロープウェイ+バス往復セット乗車券」を購入。1,420円。 |
1911年母の里書写に生まれ、名作「深夜の酒宴」により戦後文学の代表者となる。のち キリスト教に入信し、「自由の彼方で」「美しい女」をはじめ多くの秀作を世に問うた。「姫山物語」上演にかたむけた郷土愛は、いまも姫路市民の感動を呼ぶ。 1973年 没。 |
碑面の書は親交のあった岡本太郎による |
平成4年10月創建。鎌倉初期を想定して設計された。 寺の鐘は時刻や大法要の合図のために鳴らされることが多いが、のの鐘は世界平和祈願・淨佛国土建設をめざし建立された。 ひとりでも多くの方々に潜在している慈悲心をおこし、願いを込めて鐘を打っていただく。 その音は佛の声となり、十万世界に響き渡り、ほんとうの心豊かな世界を作っていくことを祈念します。 |
一隅を照らす |
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これ則ち |
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国宝なり |
曼珠沙華 |
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幼き記憶 |
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みな持てり |
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百寿翁 |
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播水 |
明治32年(1899年) 1月10日、五十嵐播水は兵庫県姫路市鍛冶町に生まれる。本名久雄。 大正9年(1920年)、高浜虚子に師事。 昭和7年(1932年)、「ホトトギス」同人。 昭和8年(1933年)、山口誓子・水原秋桜子・日野草城・鈴鹿野風呂らと共に「京大俳句」創刊に参加。 昭和9年(1934年)、「九年母」を主宰。 平成12年(2000年)4月23日、101歳で没。 |
円教寺の正門。東坂の終点にあたり、これより中は、聖域とされる。門は、両脇に仁王像を安置し、中央が通路となったおり、日本の伝統的な門の形を受け継いだ「三間一戸の八脚門」である。天井には前後に二つの棟をつくり、外の屋根と合わせて「三つ棟造り」となっている。 |
圓教寺の塔頭の一つ。承安4年(1174年)に後白河法皇が参籠したという記録が残されており、山内で最も格式が高い塔頭寺院として知られている。 建物の構成は、仏間を中心として中門を付けた書院造り風の部分と、台所を設けた庫裡とに区分され、唐破風の玄関を構えて両者をつないでいる。当時の塔頭寺院としては極めて珍しい構成で、圓教寺型ともいえる塔頭の典型である。 |
昭和44年(1969年)9月15日、高浜年尾は円教寺信徒会館で第一回西国観音札所探勝吟行会。 |
九月十五日 西国観音札所探勝吟行会第一回 書写山 円教寺、信徒会館 書写山に残暑の汗を拭きあへず 山坊の蝉の真昼に来て憩ふ 法師蝉こぞり鳴くなり法の山 |
天正7年(1579年)正親町天皇により「岡松院(こうしょういん)」の勅号を賜った。これは、赤松満祐(みつすけ)がわずか16歳で亡くなった女の冥福を祈るために建てたものとされる。 円教寺第百六世長吏實祐の住坊となり、實祐を中興第一世とする。その後同じく正親町帝より「十妙院」の勅号を賜った。塔頭壽量院とは左右逆であるが、ほとんど同じ平面構造をもつ円教寺独特の塔頭形式である。 |
延慶4年(1311年)の記念銘があり、正面上方を花頭形に彫り、その中に阿弥陀如来像を浮き彫りにしています。笠の反りが鎌倉時代の様式をよく伝えています。 |
昔、この石の上に乙天、若天のふたりの童子がこの石に降り立ち、寺門を守ったという伝説が残っている。また、別名弁慶のお手玉石と呼ばれ、この大きな護法石を、弁慶はお手玉にしたといわれている。 |
湯屋橋の擬宝珠は昭和19年に戦時供出され、昭和30年に旧刻銘「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」を刻銘した擬宝珠が寄進された。 本田忠政は元和3年(1617年)に池田光政転封のあと姫路城主となり、元和6年(1620年)書寫山に参詣してその荒廃に驚き、一門・家臣・城下で寄進を募り復興に尽力し、湯屋橋もこのとき再興された。書寫山の荒廃は、天正6年(1578年)三木城の別所長治離反に対し羽柴秀吉が当地に要害を構え布陣したことによる。 湯屋橋の名は、この辺りに湯屋(沐浴所)があったことに因むといい、「播磨国飾磨郡円教寺縁起等事」によると、釜一口・湯船一隻・湯笥一・水船一口を備える四間板葺き、西庇一面の湯屋を記し、特に釜は性空上人から依頼された出雲守則俊朝臣が鉄を集めて鋳造し人夫を整えて運搬したとある。
姫路市教育委員会
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西国三十三観音をまつる堂である。 西国三十三所観音巡礼が広く庶民のあいだで行われるようになったのは、江戸時代である。 社会情勢や交通の不便な時代にあって、誰でも三十三観音にであえるように、各地に「うつし霊場」ができた。 有名なものは板東、秩父霊場であり、播磨にも「播磨西国霊場」がある。このような「うつし霊場」をさらにミニチュア化したものが、この三十三所堂の発生であると考えられる。
姫路市教育委員会
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摩尼殿は円教寺の観音信仰の中心となる堂で、西国三十三所観音霊場第27番札所。天禄元年(970年)創建とされ、桜の霊樹に天人が礼拝するのを見た性空上人が、その生木に如意輪観音像を刻み、これを本尊とする堂を築いたのが始まりと伝わる。前摩尼殿は、大正10年(1921年)に焼失したが、昭和8年(1933年)に再建された。設計は、関西を中心に多大な功績を残した「武田五一」で、施工は尾張藩大工棟梁家の流れを継ぐ伊藤平左衛門。前身建物の旧規を踏襲しつつも、近代の意図的な歴史主義に基づく創作活動として造られた寺院建築の一つとしてきわめて注目すべき遺構で、県内を代表する建物ということができる。本尊は六臂如意観世音菩薩(如意輪観音座像・県指定需要有形文化財)で、四天王立像(国指定重要文化財)も安置されている。
姫路市教育委員会
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