昭和59年(1984年)春、蕪村の没後200年に酒田市の本間美術館蔵「蕪村自筆句稿貼交屏風」から復刻して建立。 |
寛永10年(1633年)10月11日、西山宗因は熊本から上京する途中の舟で須磨の浦を過ぎる。 |
ほどなくすまのうらを過る。在原中納言のもしほたれつゝわびける家ゐ、源氏の大将の月の都ははるかなれどもとながめ給ひしあとをおもふに、さるやん事なき人の、かりにもかゝる所へさすらへ給しことよと、すゞろに涙おとし侍る。おりしも、千鳥のと渡るを見やりて、 すまのうらのふるきあと問折しもあれこたへがほにも鳴千鳥哉
「肥後道記」
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延宝6年(1678年)、山口素堂は西国下向の途次、須磨で句を詠んでいる。 |
西國下りの頃 淋しさを裸にしたり須磨の月 |
元禄11年(1698年)4月21日、各務支考は須磨の浦を過ぎる。 |
かの須磨の浦を過るほとは此里の新茶ほすころにてそれもあはれに淋しとはおほえられし 關守もねさせぬ須磨の新茶哉 |
延享3年(1746年)7月26日、佐久間柳居は須磨で句を詠んでいる。 |
文月廿六日 わりなくも夜半の月や須磨の宿 |
明和8年(1771年)10月、加舎白雄は須磨で句を詠んでいる。 |
須磨夜泊 簾まけ寒くとも一夜すまの月
『須磨紀行』
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文化元年(1804年)、鶴田卓池は須磨で句を詠んでいる。 |
須 磨 須磨簾きじのなくにもほつれけり |
文政10年(1827年)、鶴田卓池は長崎へ旅立つ。 |
須 磨 罌粟ハ皆花のあとなり須磨の浦 こりすまや蜑が手わざも麦の秋 |
「此境はひわたるほどゝいへるもこゝの事にや」と前書きがある。『源氏物語』「須磨の巻」に「明石の浦は、ただはひ渡るほどなれば」とある。 |
明石の浦は、ただ這ひ渡るほどなれば、良清朝臣、かの入道のむすめを思ひ出でて文などやりけれど、返り事もせず、父の入道ぞ、「聞こゆべきことなむ。あからさまに対面もがな」と言ひけれど、うけひかざらむものゆゑ、行きかかりて、空しく帰らむ後手もをこなるべし、と屈じいたうて行かず。
『源氏物語』(須磨の巻) |
貞亨5年(1688年)4月、『笈の小文』の途次摂津と播磨の国境の境川で詠まれた句。境川は秀吉の天正検地のときから摂津と播磨の境界となった。 『笈の小文』にはないが、『本朝文鑑』(支考編)所収の「庚午紀行」には文末に収録。 |
昭和11年(1936年)4月、「羅月吟社」建立。無名庵十八世寺崎方堂書。 |
昭和40年(1965年)6月、山口誓子は須磨浦公園に芭蕉の句碑を訪ねた。 |
もう一つの句碑は芭蕉の句碑である。 山道を境川のところまで探ねて行ったが、そこにはなかった。しかし橋から覗き見た境川の深い谷はよかった。 引っ返して見つけた。さっきタクシーで登って来て、急に曲った地点にあったのだ。海に向いている大きな自然石。 蝸牛角ふりわけよ須磨明石 (中略) この句碑は、あの木立の深い、境川のほとりにあればよかったのに。 昭和十一年の建立。「ふりわけよ」のところが読みにくい。
『句碑をたずねて』(浪華・兵庫)
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明治28年(1895年)5月17日、正岡子規は金州から帰国の輸送船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院。27日、高浜虚子が京都から看病に来る。 明治28年(1895年)7月23日、神戸病院を退院し、須磨保養院に移る。虚子が付き添う。 |
夕立やぬれて戻りて欄に倚る 明治二十八年 子規を神戸病院より、須磨保養院に送りて数日滞 在。 |
明治28年(1895年)7月25日、高浜虚子が帰京するに当り、子規は虚子に句を与えた。 |
虚子の東歸にことづてゝ東の人々 に申遣はす ことづてよ須磨の浦わに晝寐すと |
昭和26年(1951年)9月14日、高浜虚子は星野立子と保養院の跡を訪れた。 |
九月十四日 須磨、保養院の跡を訪ひ、須磨寺小集 人恋し須磨寺の蚊にさゝれつゝ 須磨寺の鐘又鳴るや秋の暮 月を思ひ人を思ひて須磨にあり 秋風に散らばりし人皆集(よ)りし |
此度の旅は、松山で行はれる子規五十年祭に列席する 為であつた。そして今日神戸に来たのは、子規が療養生 活をした須磨の保養院と、保養院に入る前に入院した神 戸病院の跡などを見る為であつた。 |
虚子の東帰に |
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ことづてよ須磨の浦わに晝寝すと | 子規 |
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子規五十年忌 |
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月を思ひ人を思ひて須磨にあり | 虚子 |
君と共に再び須磨の涼にあらん 四月二十二日 子規、虚子竝記の句碑、須磨に立つ由 |
この師弟の二句を碑面に並刻した句碑が神戸市須磨浦公園の観光ハウス西手、ドライブウェーの山際に建設除幕されたのは、昭和二十八年四月二十九日のことであった。高さ約三尺、幅五尺、本御影の自然石を乱石積の礎石の上に据えたものである。 明治二十七年、日清戦争が勃発すると間もなく、子規居士は「日本新聞」の従軍記者を志願し、病躯を押して遼東半島に渡ったが、金州から帰国の輸送船中で喀血し、一時危殆にに瀕した。そのためその年(明治二十八年)五月二十三日、神戸病院から須磨保養院に移って療養する身となった。これを見舞った虚子翁は同地にとどまって看護をつづけた。帰京するに当り、虚子に与えたのが碑面右手に刻んだ子規居士の感懐であった。筆蹟は子規全集のものから採って展大彫刻した。 昭和二十六年九月十九日は子規居士の五十回忌に当った。碑面左手に刻まれたのが、その時松山に下る途中、この地に立寄って往事を回顧した虚子翁の追懐であった。 句碑のある場所は、須磨浦をはるかに見下す風光明媚の地で、子規居士が生前最も好きであったとこる。建碑は同地在住の五十嵐播水氏を中心にして完工された。除幕式の当日、虚子翁は次の一句を鎌倉から寄せられた。 君と共にふたたび須磨の涼にあらん 虚子 |
「子規、虚子竝記の句碑、須磨に立つ由」とある。子規の句は虚子の東帰にとして「ことつてよ須磨の浦わに晝寢すと」。父の句は子規五十年忌として「月を思ひ人を思ひて須磨にあり」。
『虚子一日一句』(星野立子編)
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昭和30年(1955年)5月24日、虚子は須磨の句碑を見ている。汀子同行。 |
五月二十四日 須磨の句碑を見、垂水の千原新居を訪ふ 娘の宿はたとへ狭くも風薫る |
昭和40年(1965年)6月、山口誓子は須磨浦公園に「子規・虚子師弟碑」を訪ねた。 |
私が文字の羅列と見たのは無理もない。 虚子の東帰に ことづてよ 須磨の浦わに 昼寝すと 子規 子規五十年忌 月を思ひ 人を思ひて 須磨に あり 虚子 いい句碑だ。碑も土台石も同じ種類の、同じ色の石だ。 子規がはじめて神戸病院で療養していたとき、京都から虚子が駈けつけ、看病した。その後保養院に移ったが虚子が東へ帰るにあたって作った句だ。「ことづてよ」は、伝言して呉れ、だ。病気をわざと軽微に扱っている趣がある。 ついでに書いて置くが、碧梧桐も東京から来た。「寒山落木」に 碧梧桐の東帰を送る 短夜を眠がる人の別れかな という句がある。 虚子の句は、子規が死んで五十年経っての句だ。 「月」は須磨の月だ。「人」は須磨の子規だ。月と子規とが思い出の中に結びついている。須磨に来て昔の月と人とを共に思ったのだ。 子規は子規の書、虚子は虚子の書。子規のは学んだ字だ。虚子のは学ばざる字だが、この世に永く生きて、年功によって成就した独特の字だ。 昭和二十八年の建立。
『句碑をたずねて』(浪華・兵庫)
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昭和42年(1967年)10月15日、星野立子は高浜虚子の句碑を見る。 |
十月十五日 関西の玉藻句会をといわれ 須磨浦公園へ 父の句 碑 子規五十年忌 |
月を思ひ人を思ひて須磨にあり 虚子 |
をはじめて見る 公園内のレストランで一と句会 |
秋晴やわづかな閑を大切に |
この付近は源平一の谷合戦場として知られ、寿永3年(1184年)2月7日に、当時16歳の平敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から、”敦盛塚”と呼ばれるようになった。このほか、鎌倉幕府の執権、北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間(1278〜1288)に造立したなどの諸説がある。 |
須磨敦盛塚 石塔に漏るゝ日影や夏木立
『寒山落木』(明治二十八年 夏)
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須磨に病をやしなひて 夏の日のあつもり塚に涼み居て病氣なほさねばいなじとぞ思ふ
「竹乃里歌」拾遺
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昭和15年(1940年)4月24日、与謝野晶子は須磨浦公園を訪れ、敦盛塚を見ている。 |
花見れば大宮の邊の戀しきと源氏書ける須磨櫻咲く(須磨にて) あはれなり敦盛塚は海近し船に心の動かざらんや
『白桜集』(殘花行)
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