元禄15年(1702年)12月13日、榎本其角は赤穂浪士討ち入り前夜に大高源五と会い、はなむけに「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対して源吾は、「あした待たるるその宝船」と返して、討ち入り決行をほのめかしたとされる。 |
この門は東の楠公西の大石と称せられる我が国の二大忠臣義士のうち楠正成公をお祀りする神戸の湊川神社の神門であったのを昭和17年移築したものである。 明治天皇の思召しで明治5年湊川神社が創立せられた時建てられた欅材入母屋造四脚門の豪快な門である。 幸い義士発祥の当地に移されていたため過る大東亜戦争の神戸大空襲にも焼失を免れ今日百有余年を経てなお其の偉容を誇っている。 なおこの門は義士の忠芬義芳を千歳までも伝える意味で「義芳門」と称している。 |
この銅像は、元禄14年3月19日の早朝、主君浅野内匠頭長矩が江戸城中で吉良上野介に刃傷に及んだという凶報が早打によってもたらされたので、藩士総登城を命じ、自らも急ぎ本丸に赴かんとする姿である。 |
四十七義士を祀る |
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大願成就の神 赤穂大石神社 |
ご祭神 義士の頭領大石内蔵助良雄命を始め、四十七義士命、中折の烈士萱野三平命 播州赤穂城主浅野内匠頭長直・采女正長友・内匠頭長矩の3侯 浅野家断絶後の藩主森家の可成・長可・忠政・可隆・蘭丸・坊丸・力丸の7武将 由 緒 大石神社は明治元年、明治天皇の東京行幸に際し、泉岳寺の義士墓前に宣旨並びに金幣を賜ったのを契機に神社奉斎の議が起こり明治33年神社創立が公許され、大正元年11月3日義士を崇敬追慕する方々の奉賛により御鎮座となった。 ご祭神四十七義士が1年10ヶ月の永い間艱難辛苦の末見事主君の仇を討った事により大願成就、願望成就の神として全国よりお参りを頂いている。 境内地は大石内蔵助、同じく家老の藤井又左衛門そして義士月岡源五右衛門、大石瀬左衛門の邸跡一帯である。 尚、ご社殿を始めとする境内各施設は平成14年の義士討入り満300年を記念した境内整備事業により一新された。 例大祭日は吉良邸に討入り見事主君の仇を討った12月14日。 |