滝道となれば迷はず行けるもの 布引の滝 二句 雌滝には行かず雄滝を引き返す |
藤原定家(康保2(1162)〜仁治2(1241))、俊成の子、新古時代を代表する歌人であり余情豊かな格調のたかい歌を詠んだ。新古今集・新勅撰集の撰者であり、小倉百人一首も彼の撰に基づいている。 この歌は後鳥羽院が関東調伏のために京都白川辺に建てられた寺の最勝四天王院の障子を飾った歌である。最勝四天王院障子和歌という。全国46の和歌を人々に詠ませられたが、その時定家が詠進した布引の滝の歌である。 歌意は平明である。 |
この歌は夫木和歌抄にあるもので、作者は後九條内大臣となっている。即ち藤原基家(建仁3(1203)〜弘安元(1280))である。この碑に刻まれている兼実(久安5(1149)〜承元元(1207))の孫にあたり、続古今集の撰者に加わって活躍した人である。 伊勢物語八十七段の「いさこの山の上にありという布引の滝見にのぼらむ」の所を「いざ、この山」とよまないで「いさごの山」とよむ説の根拠にされている歌である。 一方、伊勢物語のこのよみ方からこの山の名ができたとの説もある。 |
藤原行能(治承4(1180)〜没年未詳)、鎌倉期歌人。 父は世尊寺流の書家伊経で、行能もまた同流の能書家として有名で新勅撰集の奏覧本を清書するほか諸所の額や屏風の揮毫にあたった。新古今集以下勅撰集に49首入集する。 この歌は新勅撰集にあるが、元は建保3年(1215年)順徳院の命で撰進された名所百首歌である。「滝の白糸」は、白く流れ落ちる滝水を幾筋もの白糸に見たてた歌語であり、「わくらば」は、たまさかにの意。たまに訪ねくる人もどの位年代を経たものであろうかと、布引の滝の長年月人々から愛され観賞されたことを詠んでいるのである。 |
藤原良清(生没年未詳)、平安期歌人。 勅撰作者部類によれば右馬頭藤原範綱の子で、太皇太后宮少進(太皇太后宮に関する役所の三等官)である。千載集に3首の歌をのこす。 この歌も千載集にあるもので「布引の滝をよめる」との題がある。音の縁で琴をひびかせ、同時に事の数と数多いことを示し、布引の滝はたいへん名高いがその数多い名でなくて、即ちその高名さよりなお滝が高いとその雄大さを言っている。伊勢物語では「長さ二十丈広さ五丈程の岩の面を白絹で包んだ様」とあるが、雄雌と分離されず一本で長年月の変化が思われる。 |
この布引の滝は、那智の滝、華厳の滝と並んで、我が国の三大神滝といわれています。それだけに昔から貴族、歌人などがよく訪れ、詩などを数多く謡(よ)んでいます。 布引の滝は4つの滝(上流から雄滝・雌滝・夫婦滝・鼓ヶ滝)から成ります。 この滝は雌滝(めんたき)で高さ19メートル。 しなやかで上品な滝です。 約200m上流には高さ43メートルの雄滝(おんたき)があり雄大な姿を呈しています。 |
藤原良経(嘉応元(1169)〜元久3(1206))平安末鎌倉期歌人。父は関白藤原兼実で、良経もまた太政大臣になった。歌人としても重要な存在で、歌壇活動を活発にした。後鳥羽院の信任厚く、和歌所の寄人筆頭となり、新古今撰進に大いに貢献した。 この歌は続古今集にもあるが、彼の歌集「秋篠月清集」によれば、建仁元年(1201)後鳥羽院などと共に詠んだ「院句題五十首」の作で月照清水という題である。月光を浴びて滝水が真白に晒される風情で、人間界のものでなく、まさに山人即ち仙人の衣であるようだとの趣向である。 |
藤原俊成(永久二(1114)〜元久元(1204))官職は皇太后宮大夫となったが出家して釈阿と号した。91歳の長寿を保ったが千載集撰進以後は、鎌倉期にかけて歌壇の長老として後進を指導した。幽玄美を理想としたが、それがやがて余情余韻ゆたかな新古今歌風を生み出す母胎となった。 この歌は治承2年(1178)5月右大臣家百首に「五月雨」の題で詠まれたものである。なお、この歌碑の文字は明治期、禅宗の老師であった南天棒禅師の筆になるものである。 |
寂蓮(生年不詳〜建仁2(1202))本名は藤原定長で俊成の養子となったが出家して寂蓮と号した。諸国に旅すると共に諸歌会に出詠するなど歌壇で活躍した。新古今集の撰者にも加わったが、その成立を見ずして没した。 この歌は玄玉集によれば「百首歌に氷閉滝水といふ心を」という題の歌となっている。氷にとざされた滝水に松風を配してたくみに表現している。玄玉集は建久2年(1191)頃に成った私撰歌集である。 |
源俊頼(天喜3(1055)〜大治4(1129))、平安期歌人。 源経信の子で木工頭であった。父経信の影響下に早くより作歌活動を始め、やがて歌合の判者など指導者として活躍した。清新な歌風の持主で歌壇に新風を吹きこんだ。白河院の命により金葉集を撰進した。 この歌は、彼の歌集「散木奇歌集」によれば「布引滝」であるが、続古今集では「布引滝見にまかりて」との題であるので、実地詠となる。人間の手によるものでなく、この滝水は、山の女神が嶺の梢にひきかけて、山の斜面にさらした白布であるよ、との布引の名を如実に示しているのである。 |
紀貫之(生年未詳〜天慶8(945))、平安朝歌人。官吏としては木工権守が最後であってが、歌人としては最初の勅撰集、古今集撰進の第一人者であり、平安朝和歌の基礎を築くと共に、古今集序や土佐日記によって仮名文字の道を開いた。数多い屏風歌を詠んだのも特徴である。 この歌も屏風歌で、延喜17年(917)敦慶親王(宇多皇子)家の屏風の(松山の)滝を画いた大和絵の画賛の歌である。松風が琴の音のようにひびいてくる、滝水の糸を張っての琴であろうよ、と松籟と滝音とが調和している風情を思いやって詠んでいるのである。 |
藤原家隆(保元3(1158)〜嘉禎3(1237))、平安末鎌倉期歌人中納言光隆の子で宮内卿であったが、歌壇に活躍、新古今集撰者となり、藤原定家と並び称せられる新古今時代の代表歌人である。多作家で詠歌6万首あったと伝えられる。後鳥羽院を慕い、院隠岐配流後も忠誠をつくしたのは有名である。この歌は新後撰集にあるが、千五百番歌合における勝歌で判者慈円は、 いとどしく音さへ高く聞ゆなり雲にさらせる布引の滝 との判の歌でもって讃えている。布引滝の壮大性と永続性がみられる。 |
在原行平(弘仁9(818)〜寛平5(893))、平安朝歌人。父は芦屋に塚のある阿保親王(平城皇子)で業平の兄である。因幡守や民部卿であったが須磨に隠棲の身となり、松風村雨との伝説は有名で、謡曲「松風」などの題材となっている。 この歌は新古今集にもあるが、元は伊勢物語で、業平一行と布引見物に来た時の歌である。自分の失意を表した歌で「世にときめくのを今日明日と待つ甲斐もなく不幸なわが身こぼれ落ちるわが涙の滝とこの滝とどちらが高いか、私の涙の方が・・・」との気持ちがにじみ出ている。涙のなに甲斐の無がひびいている。 |
在原業平(天長2(825)〜元慶4(880))、平城天皇皇子の阿保親王の第5子で在五中将とも呼ばれる。六歌仙時代の代表歌人であり情操ゆたかな歌を詠んだ。業平の歌を物語化したものが漸次増益して現在の伊勢物語になったとされている。 この歌も伊勢物語にあるもので、業平が父の領地芦屋の里にいた時、友人たちと布引の滝見物に来た時詠んだものである。滝の水玉がとび散るのを、緒で貫いた白玉をばらばらにして散らしたように見たてたもの。袖は白玉をうけとめる自分の衣の袖である。 |
宇治前太政大臣布引の滝見にまかりける 供にまかりてよめる
大納言経信
白雲とよそに見つればあしひきの山もとどろに落つる激(たぎ)つ瀬
読人不知
天の川これや流れのすゑならむ空よりおつる布引の滝京極前太政大臣、ぬのびきのたきみにまかりて侍 りけるに
二条關白内大臣
みなかみの空にみゆるは白雲の立つにまがへるぬのびきの瀧最勝四天王院の障子に、ぬのびきのたきかきたる ところ
藤原有家
久かたのあまつをとめが夏衣雲井にさらすぬのびきのたき |
前参議に侍ける時、布引の滝見に罷りてよみ侍ける
前中納言定家
音にのみ聞きこし滝も今日ぞ見る在りて憂き世の袖や劣ると名所歌召しけるついでに
後鳥羽院御製
布引のたきの白糸うち延(は)へてたれ山かぜにかけて乾(ほ)すらん布引滝をよみ侍ける
従二位頼氏
天の川雲の水脈(みを)より行く水のあまりておつる布引のたき |
在原行平(弘仁9(818)〜寛平5(893))、平城天皇皇子の阿保親王の第二子で、業平の兄である。文徳天皇の御代に事情があって須磨にわび住居をしていたことがある。その時松風村雨の姉妹を愛した伝説は有名である。この古今集にあるもので「布引の滝にてよめる」との題がついている。「しごいて散らす滝水の白玉を拾っておいて、この世のつらく悲しい時の涙に借ろうよ」といった意味で、須磨にわび住居をしていた時の述懐の歌とされている。 |
順徳院(建久8 (1197) 〜 仁治(1242))、父は後鳥羽院、第八十四代の天皇である。早くから和歌に親しみ歌学を研究された。 その著「八雲御抄」は古代歌学を知る上に重要な資料となっている。父と共に北条氏打倒を企てられたが、事成らず佐渡島に配流の身となられた。 この歌は建保3年(1215年)の内裏名所百歌の中「布引の題」を題にしたものである。たちぬはぬ衣は無縫の天衣であり、山姫は山の女神を意味する。 |
寛永10年(1633年)10月11日、西山宗因は熊本から上京する途中の舟で布引の滝を歌に詠んでいる。 |
十一日、むこの山、生田の森を見て過る。布引の滝は外山にかくれて、こなたよりは見えず。ひとゝせ、おもふどちかいつらねて見にまかりしことを思て、 打つれていくたの川のそのかみをおもひぞながす布引の滝
「肥後道記」 |
貞亨5年(1688年)4月21日、芭蕉は『笈の小文』の旅の帰途布引の瀧に登る。 |
廿一日布引の瀧に登る。山崎道にかゝりて、能因のつか・金龍寺の入相の鐘を見る。「花ぞ散ける」といひし桜も若葉に見えて又お(を)かしく、山崎宗鑑屋舗、近衛どのゝ、「宗鑑がすがたを見れば餓鬼つばた」と遊しけるをおもひ出て、 有難きすがた拝まんかきつばた と心の内に云て、卯月廿三日京へ入。
「猿雖宛書簡」 |
安永6年(1777年)4月、蕪村は大魯・几菫等と布引の滝に行って吟行。 |
大魯・几菫などゝ布引滝見にまかりてかへ さ、途中吟 舂(うすづく)や穂麦が中の水車 |
文化2年(1805年)10月30日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で布引の滝を見に行った。 |
これより布引の瀧見みと思へば、輿も從者も西ノ宮の方にゆかしめ、北川氏とゝもに生田川にそひゆけば、風はげし。山路をかちよりのぼりゆけば人家あり。樋かけたるは瀧の流の水をひきて酒つくるなるべし。北川氏案内して、まづ女瀧といふを見る。又右の山路にわけのぼりて、四阿あり。これ瀧見る所なり。名におふ布引の瀧は高さ數十丈ありて、五段ほどに流れ落る也是男瀧なりそれより上にも二段ばかり流れ落るやうにみゆ。中程の水岩にあたりて、横ざまにほとばしるさま志ら玉のまなくもちるかとうたがふべし。 |