昭和8年(1933年)3月、姫路市主催の城を詠める俳句展覧會の出句作品。 |
この曲輪は、姫路城主本多忠政が大坂夏の陣のあと、将軍徳川秀忠の長女千姫をめとった息子忠刻(ただとき)のために、元和4年(1618年)に御殿を建てたところで、「中書丸」ともいわれていました。中書とは、忠刻の官職中務大輔(なかつかさたゆう)の唐名です。 御殿を囲むように築かれた長屋は通称「百間廊下」ともいい、約300mの長さになります。そのうち、ヨの渡櫓から北の部分が長局です。小さな部屋が廊下に面して並んでいて、西の丸の御殿で働く女中が住んでいたとみられます。 長局の北端に化粧櫓があります。大きく開放された窓や床の間、畳敷きなど、ほかの武骨な櫓に比べると、人が居住できる拵えになっています。千姫が男山にある天神社を拝むため西の丸に来た際に、身づくろいをしたり、休息した場所といわれています。 |
西の丸を囲むように築かれた長屋は長さが約300mもあるので、とても長いという意味で「百間廊下」とも呼ばれ、建物内は城外側が廊下、城内側が部屋になっています。そのうち、ヨの渡櫓には廊下に面して納戸のある小さな部屋が並んでいました。これが長局で、西の丸御殿で働く女中の住んだ部屋とみられます。 また、この建物には、城外からの攻撃に対する防御機能もありました。城の西側は山がすぐ近くに迫っているため、防御上の弱点でした。そのため、城外側(西)に向けて格子窓や狭間(さま)がいくつも備えられました。格子は、木芯に鉄板を張りその上から漆喰を塗り込んで頑丈に造られています。戦時には廊下に鉄砲隊を配備すれば強力な防御線となり、雨天でも火縄銃で射撃ができる利点がありました。通常は部屋を倉庫として使用し、戦時には家臣の家財道具や家族を避難、収容することもできました。一見すると特徴がなさそうですが、実は姫路城の防御力を現している建物なのです。 |
十三日、姫路の城を通る。[書]写より一里也。先音にきく名城を見て、 |