昆陽寺は天平5年(733年)、僧行基の開創と伝えられている。その後、天正7年(1579年)織田信長の兵火にかかって一山の堂塔を焼失したという。 山門は、旧西国街道に面して建っている。上層周囲に縁をめぐらし、細部にみる絵様繰形の形式手法は江戸中期のものである。内部戸口柱を通柱として、上層柱をも兼ねる構法は珍しく、斗キョウ(※手偏に「共」)部中備え間斗上の双斗肘木と妻飾虹梁下の大斗花肘木の意匠は前代のそれをよく残している。 江戸時代中期における豪壮な山門は、県下でも類例が少なく、貴重な構造である。
兵庫県教育委員会 |
命あれば昆陽の軒端の |
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月も見つ |
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又いかならんゆく末の空 |
昆陽寺観音堂は桁行3間、梁間3間、一重寄棟造正面向拝付、本瓦葺である。建立年代は明らかではないが、様式手法からみて、山門再建に先立つ時期と思われる。 4面に軒柱を建て、その軒内3面に切目縁をめぐらし、正面に1間の向拝を付す。 総じて簡素な建築であるが、側まわりの海老虹梁や向拝などの手法は、江戸初期の特徴をよく示している。 この地方における江戸初期の数少ない遺構の一つとして貴重である。
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山鳥の |
ほろほろとなく |
声きけば |
父かとぞ思ふ |
母かとぞ思ふ |