国清寺(通称国清庵)は江戸時代中期に勝算和尚が開創した禅寺である。 勝算和尚は、ふご和尚の別名をもち、その徳風は人々に敬愛され、隆盛期には堂塔伽藍が整い、背後の双児山にある三十三観音霊場と共に眺望豊かな桃源郷に在する富格な禅寺として信者の絶えぬ名刹であった。第二十三代の頃から、戦後の混乱により農地解放等の改革で田地を手離し、寺の経営不能困難となり荒れるにまかせていた。 その時、自ら禅宗の僧籍をもち、句画禅一如の精神を持つ南画家直原玉青画伯は、縁ある淡路島の禅寺国清寺が倒壊寸前にあるのを見て、再興を決意したのである。 昭和52年本堂の修復から始め、庫裡、中国風山門、窟門、青丹館茶室素軒、開山堂、月見亭、句画禅亭と寺苑を整え、庭に富貴花ぼたんを育て、昔日に勝る風格を有するに到った。 |
野遊の心足らへり雲とあり | 年尾 |
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白牡丹といふといへども紅ほのか | 虚子 |
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空といふ自由鶴舞ひやまざるは | 汀子 |
虚子の句は大正14年(1925年)5月17日、「大阪毎日」一万五千号記念俳句大会で詠まれた題詠句。『五百句』に収録。 年尾の句は昭和14年(1939年)の句。『年尾句集』に収録。 汀子の句は昭和56年(1981年)1月17日、出水市で詠まれた句。『汀子第二句集』収録。 |
大正6年(1917年)10月24日、高浜虚子が大和郡山の門人原田浜人を訪れた時、阿波野青畝は虚子と出会い、師事する。 昭和4年(1929年)、青畝は俳誌『かつらぎ』主宰となる。同年『ホトトギス』同人。 |
大正13年(1924年)10月16日、森田峠は大阪府に生まれる。本名は康秀。 昭和19年(1944年)、小諸に疎開中の高浜虚子に会い、虚子から「峠」の俳号を貰ったそうだ。 昭和26年(1951年)、阿波野青畝の『かつらぎ』に入会。 平成2年(1990年)、青畝より『かつらぎ』を継承。 平成25年(2013年)6月6日、88歳で没。 |