世に有名な『源平合戦』の折、西は須磨の一ノ谷から、東はこの生田の森にかけての一帯が戦場となりました。 平家はこの生田の森を大手の木戸口とし、知盛大将軍・重衡副将軍が陣取り防備を固めていましたところ、ここへ源範頼の軍勢が攻め入りました。 この時源氏の若武者梶原源太景季が境内に咲き誇った梅の一枝を箙(えびら)に挿して戦ったことは武士の風流として語り継がれ、現在も「箙の梅」として老梅が境内に植わっています。 この他にも生田神社の境内には、源平の合戦に因んだ史蹟が多数残されています。 古くより文人墨客に愛されてきたこの森も、現在では都会の真中のオアシスとして、また、パワースポット・ヒーリングスポットとして親しまれています。 また、春にこの『生田の森』で開催される「曲水の宴」は平安の歌遊びを再現した雅な行事としてお楽しみいただいております。 |
謡曲「箙」は、梶原景季が箙に梅をさして奮戦した様を描いた勝修羅物である。 源平盛衰記には、源平一の谷合戦の時、梶原景時、景季父子は生田森で平家方の多勢に囲まれて奮戦した時の様子を『中にも景季は、心の剛も人に勝り、数奇たる道も優なりけり。咲き乱れたる梅が枝を箙(矢をさし入れて背中に負う武具)に副へてぞ挿したりける。かかれば花は散りけれども匂いは袖にぞ残るらん。“吹く風を何いといけむ梅の花、散り来る時ぞ香はまさりけり“という古き言までも思い出でければ平家の公達は花箙とて優なり、やさしと口々にぞ感じ給いける』と称讃の言葉で現わしている。戦場の凄まじさ、殺伐さの中に、風流な香をただよわせて、何んとも表現のし難い風情である。
謡曲史跡保存会 |
「神垣や又とをらせぬ梅の花」とあり、裏面に「文化元甲子春 子日庵一草」とある。 子日庵一草は文化文政の俳人で、岩手県和賀郡黒沢尻の人である。諸国の神社仏閣名所旧跡を遍歴行脚し、終焉の地を摂津兵庫に決めて、文政2年11月18日、兵庫の津、鶴路亭において89歳で没した。 この句は源平合戦の際に源氏の若武者梶原源太景季が咲きほこる梅の一枝を手に折って箙にさし、獅子奮迅の働きをした故事をふまえ、この生田の森は神聖な境内であるから二度と箙の梅は折らせないと詠んでいる。 |
当社は稚く瑞々しい日の女神「稚日女尊(わかひるめのみこと)」をお祀り申し上げ、古く神功皇后三韓より御帰還の砌、御神誨によって「活田長峡国(いくたながおのくに)」即ち現今の処に御鎮斎になった由緒高い大社で、神戸の地名は当社の「神戸(かんべ)」から起こったものであります。 古来より朝廷の尊崇極めて篤く、生業守護・健康長寿の神として名高く、家運隆昌・円満和楽の御神徳を仰ぎ奉らむと、年々多くの神前結婚式をかぞえ、「縁むすびの神」として有名であります。 又、平安の昔文人墨客が名勝「生田の森」を訪れ、その後源平合戦の古戦場となり、近くは昭和20年6月5日大東亜戦争の戦災により悉く焼土と化し、昭和34年4月氏子崇敬者の奉賛により、戦災の復興を成し遂げ、更に昭和59年式年造替の制を定め、輪奐の美弥々整いましたが、平成7年1月17日未明阪神淡路を襲った大震災により、御本殿をはじめ境内各所に甚大な被害を受けました。然しながら皆様方の不断の努力により平成8年6月、以前にも増して立派に復興し「蘇りの社」とも言われております。更に平成21年9月の第三回式年造替に続き、平成29年4月には、全ての整備事業を完遂いたしました。 尚、境内には「生田の森」「生田の池」「箙の梅」「敦盛の萩」等幾多の史跡を有し、古くより今日に至るも有名な処であります。 |
法然上人が賀茂に参詣の途次、男の捨子を拾い養育、十歳餘りになって或日上人の説法により母名乗り出で我が父は敦盛なることを知り深く恋慕する。賀茂明神に17日参詣して祈誓し、満参の日、父に逢わんとせば生田の森に下れ、との霊夢を蒙むる。 生田森の草庵内で甲冑を帯した亡霊の父に対面して、軍物語をするあたりは誠に哀情の深さと、修羅の闘争のすざましさを見せつけられる。これが謡曲「生田敦盛」である。 敦盛最期のことは、平家物語、源平盛衰記に見えるが、遺子のあった事は軍書類には見当らず、ただお伽草紙「小敦盛」に見られるのみである。 生田森は源平一の谷合戦の重大拠点であったが、今は知らぬ顔の静寂さである。
謡曲史跡保存会 |
森は 大あらきの森。しのびの森。ここひの森。木枯の森。信太の森。生田の森。木幡の森。うつ木の森。
『枕草子』 |