関白師実の子で、彼もまた内大臣関白であった。多才多芸の持主と伝えられる。日記に二条関白記があり後拾遺集以下に5首入集する。
この歌は新古今集に「京極前太政大臣布引の滝見にまかり侍りけるに、二条関白内大臣」とあるが、即ち栄花物語にある師実遊覧の際、父に従って来たのである。栄花物語では三位中将の肩書きである。新古今では第二句「空に見ゆるは」とあるが見えるからとする栄花の方が明直であろう。高所に見える事については、宝永7年(1710年)の兵庫名所記に滝が海辺から見える記事がある。 |
新生田川沿い沿いの生田川公園に歌碑が続く。
新布引橋を過ぎると、西園寺実氏の歌碑があった。

呉竹の
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夜の間に雨の
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洗ひほして
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朝日に晒す
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布引の滝
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西園寺実氏(建久5(1194)〜文永6(1269))鎌倉期歌人。
太政大臣公経の子で、自分も内大臣を経て太政大臣になった。皇室の外戚となり、特に後嵯峨院時代に大いに勢力をもった。歌道においては藤原為家と親しくして歌壇活動をした。新勅撰以下に236首入集する。
この歌は夫木和歌抄にあるが、「呉竹の」は竹の節から転じて夜・世などにかかる枕詞である。夜中の雨に洗い干して、更に朝日の光にあてて真白になりゆく布とつづけているのである。布引の滝の純白清新な風趣である。 |
原田線を越えると、藤原為忠の歌碑があった。

うちはへて
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晒す日もなし布引の
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滝の白糸
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さみたれの頃
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藤原為忠(延慶2(1309) 〜応安6(1373))南北朝歌人。
二条為藤の子で中納言であった。若い頃から歌道に精通し、二条家歌人として名を成した。正平年間南朝に出仕し、南朝歌壇における重要な歌人である。宗良親王撰になる准勅撰集の新葉集には40首入集している。
この歌も新葉集にあり、正平8年(1352年)の内裏千首歌会のもの、題は滝五月雨とある。暗雲たれこめ五月雨降りつづく連日、滝水もうす暗く、白く輝く風情ではない。それを滝の白糸を長く延ばして晒す日もないと表現したのである。 |
高階為家の歌碑

水上は
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霧たちこめて
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見えねとも
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音そ空なる
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布引のたき
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高階為家(生没年未詳)平安朝歌人。
太宰大貳高階成章の子で、栄花物語の承保3年(1076年)頃の記事の肩書では播磨守とある。特に名のある歌人ではなく勅撰集には歌は見あたらない。
この歌も栄花物語の関白師実布引の滝遊覧の時のものである。たちこめた霧のなか、空高く鳴りひびく滝音の風情である。布引の滝の高さに触れたのは、この歌碑群の中にもよく見られるところである。 |
阪神神戸線の手前に藤原輔親の歌碑があった。

水上は
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いつこなるらむ
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白雲の
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中より落つる
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布引の滝
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藤原輔親(天歴8年(954)〜長暦2年(1038))平安朝歌人。
家系は大中臣(おおなかとみ)氏で伊勢神宮に奉仕する祭主(神宮の長)の家柄である。その祭主能宣(よしのぶ)の子で、彼もまた祭主となり、且つ神祇官の長官である神祇伯にもなった。
また、大中臣家は代々歌人の家であり、彼もまたその血をうけて種々活躍した。拾遺集以下勅撰集に31首入集する。
この歌は輔親家集には見あたらないで、続古今集にあるもので、「布引滝を」との題である。
この歌も布引の滝の高く壮大なことを讃えた歌で、歌意は平明である。 |
阪神神戸線を過ぎると、藤原盛方の歌碑。

岩間より
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落ち来る滝の
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白糸は
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むすはて見るも
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涼しかりけり
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藤原盛方(保延3年(1137)〜治承2年(1178))平安朝歌人。
中納言顕時(あきとき)の子で、母は平忠盛の女であるから平清盛とは従兄弟になる。広田神社社頭で開催の広田社歌合にも出詠している。千載集以下勅撰集に9首入集する。
この歌は千載集にあるもので藤原頼輔の家の歌合で詠んだもの、「納涼の心」をとの題である。だから「涼しかりけり」といっているのである。「むすばで」は「酌まないで」の意だが糸の縁語にもなっている。手にとらないでも見るだけで涼しい気がする、と自然な情感をうたっている。 |
八雲橋を過ぎると藤原隆季の歌碑があった。

雲井より
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つらぬきかくる
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白玉を
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たれ布引の
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たきといひけむ
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藤原隆季(たかすえ)(大治二年 (1127)〜没年未詳)平安朝歌人。
中納言家成の子、権大納言であった。詞花集以下の勅撰集に11首入集する。
この歌は詞花集に、「左衛門督家成、布引の滝見にまかりて歌よみ侍けるによめる」との詞書のある歌である。即ち左衛門督であった父家成と共に、滝見物に来た時の歌である。滝水を白玉と呼ぶのは、業平の「白玉のまなくも散るか」・行平ゆきひらの「こきちらす滝の白玉」などにも見られる。この滝を布引の滝と誰が言ったのか、むしろ白玉の滝というべきではないかといった口吻がある。 |
雲井橋を過ぎると澄覚法親王の歌碑があった。

ぬのひきの
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たき見てけふの
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日は暮れぬ
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一夜やとかせ
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みねのささ竹
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布引の
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たきつせかけて
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難波津や
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梅か香おくる
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春の浦風
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澄覚法親王(ちょうかくほっしんのう)(承久元年(1219)〜正応2年(1289))
後鳥羽院皇子の雅成親王の長子で、若くして出家、天台座主大僧正となる。家集に澄覚法親王集があるが、この2首は同集には見あたらず夫木和歌抄に「布引百首御歌」として掲載されている。終日布引をたのしんだ感慨と早春の滝の風情があらわれている。 |
加藤枝直の歌碑

雲かすみ
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たてぬきにして
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山姫の
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織りて晒せる
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布引のたき
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加藤枝直(えなお)(元禄5年(1692)〜天明5年(1785))、江戸期歌人。
伊勢の人であるが、江戸に出て大岡越前守の配下の町与力などの役人となった。和歌を好み賀茂真淵と親しみ門弟ともなり、その保護者でもあった。歌風は技巧をまじえた古今風であり、自撰歌集に「あづま歌」がある。
この歌、雲と霞とを経(たて糸)と緯(よこ糸)にして山の女神が織って晒したと、いかにも流麗な古今風表現である。その美しさはこれまた人工わざでないと讃えているのである。 |
小沢蘆庵の歌碑

主なしと
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誰かいひけむ
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おりたちて
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きて見る人の
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布引のたき
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小沢蘆庵(享保8年(1723)〜享和元年(1801))江戸期歌人。
京都に住み、伝統歌学を排し自家の説「ただごと歌」を提唱して、平易な用語で感情をあるがままに表現することを説いた。歌集に「六帖詠草」、歌学書に「ふるの中道」がある。
この歌も六帖詠草にあり名所滝との題がある。「主なし」とは持ち主の無い意である。この歌碑群の中に 橘長盛の「ぬしなくて」の歌があるが、これを本歌としたものであろう。即ちここにやって来て見る人こそ持ち主ではないかとの気持である。また織り裁ちて着てをもひびかせている。 |
江戸期歌人は知らなかった。
八雲橋を渡る。
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