姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、城内では最も格調高く厳重な門でした。現在「大手門」と呼んでいる大型の高麗門は昭和13年(1938年)に完成したもので、位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっています。また、大手門前の内堀には桜門橋という木造橋が架けられていました。今回復元した桜門橋は、発掘調査で出土した遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして平成19年(2007年)に築いたものです。 |
上山里下段の石垣は、天正8年(1580年)羽柴秀吉の姫路城改築により積まれたと推定されるI期の古式な石垣です。 信長の安土城とほぼ同時期のもので、ほとんど加工しない凝灰岩やチャートなどの石材を使用した野面積(のづらづみ)と呼ばれる積み方です。 |
姫路は、古代には播磨国府が置かれ、中世には府中として守護の拠点となりました。姫路城は府中に築かれた城で、築城は14世紀まで遡るという説もありますが、やはり16世紀中頃に黒田重隆・職隆(もとたか)父子が、御着城の端城として築いたとみるべきでしょう。天正8年(1580年)、羽柴秀吉は播磨国を平定すると、織田信長の命令により姫路城を築きます。このとき、三重天守をもつ石垣造りの城郭となりました。城の周囲には家臣が集住し、商人を移住させて城下町も整備されました。 慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦の戦功で播磨国を与えられた池田輝政は、城を大改修します。羽柴時代の縄張りを踏襲しつつ、五重天守や高石垣を築き、規模も大きくしました。また、輝政は徳川家康の娘督姫を妻としたことから、2人の間に生まれた男子は大名に取り立てられて淡路国や備前国が与えられ、池田一族の領地は約100万石にもなりました。その本拠が姫路城で、西国の豊臣恩顧の大名をけん制し、豊臣秀頼の大坂城を西側から包囲する役割も期待されました。 姫路城が完成するのは、池田氏のあと城主となった本多忠政の時代です。元和4年(1618年)には西の丸を増築し、三の丸の御殿も整備しました。池田時代には頓挫した飾磨津(しかまつ)と城下を結ぶ運河(三左衛門堀)計画が、船場川を改修することで実現できたのもこの時期です。その後、城主は松平氏、榊原氏など親藩や譜代の大名が歴任し、酒井氏のとき廃藩置県となりました。 明治7年(1874年)、旧城内には陸軍歩兵第十連隊が駐屯し、明治29年(1896年)には第十師団が置かれることになりました。姫路は城下町から軍隊の町へと変わり、第二次世界大戦中は2度の空襲を受けました。城内にも焼夷弾が投下されましたが、城の建物に大きな被害はありませんでした。 昭和6年(1931年)1月、大天守、西小天守、乾小天守、東小天守とこれを結ぶ渡櫓が国宝に指定され、昭和31年(1956年)、中濠以内107haが特別史跡に指定されました。平成5年(1993年)12月には、日本で初の世界文化遺産に登録されました。 |
姫山・鷺山(城山)への入口を固める櫓門で、門の正面には蔀(しとみ)となる石垣と土塀があり、枡形構造になっています。 「菱の門」の名称は、鏡柱上部の冠木に木製の花菱が飾られていることに由来します。鏡柱は1本の太い角柱のようにみえますが、実は板で覆った集成材のようなもので、板の合端(あいば)を隠すために筋金具を打ちつけています。外観は、一部を除き白漆喰総塗込めで、柱や貫(ぬき)、長押などの形がそのまま出ているのが特徴です。2階の正面には黒漆に飾り金具がついた火灯窓・武者窓が配置されています。入母屋の東西の妻は、西側が素木(しらき)の木連(きづれ)格子、東側が白漆喰塗込めになっています。 |
元和3年(1617年)3月6日、池田光政は幼少を理由に因幡鳥取32万5000石に減転封となる。7月14日、本多忠政が桑名藩から姫路城主となって15万石を領した。 |
ここは備前丸という曲輪で、「御前丸」と呼ばれていた時期もありました。もともと池田輝政の御殿がありましたが、本多忠政が城主になると、御殿は三の丸に移されたといわれます。敷地面積が狭いため、曲輪内には建物が密集していたとみられ、昭和の大修理では天守台石垣のすく下で排水溝や建物の遺構が発掘されています。 御殿が三の丸への移った後も、南側の石垣上には二重櫓と長局(ながつぼね)、御対面所などが建ち並び、曲輪内には御台所(みだいどころ)と折廻櫓(おれまわりやぐら)がありました。御台所や長局などは明治15年(1882年)に失火で焼失し、備前門の一部と折廻櫓だけが昔の姿をとどめています。 |
この井戸は、播州皿屋敷の怪談で知られる「お菊井戸」といわれています。 永正年間(1500年頃)、姫路城主小寺則職(のりもと)の執権青山鉄山は町坪(ちょうつぼ)弾四郎と語らい、城を奪おうと企てていました。則職の忠臣衣笠元信は、お菊を青山家に女中として住み込ませ、その企てと探らせました。則職暗殺を探知したお菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路市)に逃げて殺されずに済みましたが、城は鉄山に乗っ取られました。お菊の動きを知った段四郎は、お菊を助ける代わりに結婚を強要しました。元信を慕うお菊はそれを拒みました。弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の加法の10枚揃いの皿を1枚隠し、その罪をお菊にかぶせて責め上げました。それでも弾四郎を拒むお菊は、ついに切り殺され井戸に投げ込まれました。 その後、毎夜この井戸から「1枚、2枚、3枚・・・9枚」と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。やがて元信らが鉄山一味を滅し、お菊は「於菊大明神」として十二所神社内に祀られました。 |