2021年兵 庫

姫路城〜阿波野青畝〜
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好古園から姫路城三の丸へ。


桜門橋と大手門は、人でいっぱいである。

世界遺産 姫路城


 姫路城は、世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約に基づき文化遺産として世界遺産のリストに登録されました。このことは、人類全体の利益のために保護する価値を持っていることを正式に認められたことになります。

 姫路城は、城主池田輝政が築城したもので、慶長6年(1601年)から8年余の歳月をかけて天守など主要部が完成さ、さらに元和3年(1617年)に城主となった本多忠政により、西の丸や三の丸が整えられました。

 螺旋状に三重の濠をめぐらし、その内部に城下町をとり込んだ大規模な縄張りは、防御に工夫した日本独自の城郭の構成を最もよく示しており、天守群、櫓、門、土塀等の建造物群や濠、土塁などがよく保存されています。

 姫路城は、現存する最大の城郭建築で木造です。木造の外側を土塁で覆い白漆喰仕上げています。大天守は五層六階・地下一階で、各層に千鳥破風と唐破風を飾り、最上部を望楼とし三方に小天守を配置した連立式天守でその美的完成は我が国の城郭建築の中でも最高の地位にあり、世界的にも例をみない貴重なものです。

 白漆喰総塗篭の天守群の立ち並ぶ姿から「白鷺城」の名で親しまれており、桃山時代の技巧を駆使した近世城郭建築史上最も優れたものです。

姫路城


姫路城三の丸

 桜門橋を渡り、大手門を通ると目の前には、三の丸広場が広がり、その正面に大天守が飛び込んで下くる。現在の姫路城の姿である。

 江戸時代、城の大手は二重枡形門という特に厳重な構造でであった。内堀に架かる木製太鼓橋を渡ると、高麗門の桜門があり、その奥、現在の大手門がある場所には、桐二門が西向きに設けられ、さらにその北にには、向きを反転し東を正面とする櫓門の桐一門という、3つの門からなっていた。

 この桐一門を通れば、三の丸広場のほぼ中央に幅約21mの大手道が大天守方向に向かっていた。道の南西には、武蔵野御殿、さらにその西の高台には、御本城(御居城ともいう)と呼ばれる御殿があった。総面積4,000uにも及ぶ殿舎は、元和3年(1617年)に入封した本多氏が整備しました。

 約1万坪の日本庭園で文化財の保全と活用を兼ねた新しい文化の場として平成4年4月29日に開園したとされ、藩政の中心をなしていた。道の東側には向屋敷があり、藩主の娯楽や接客のため、数寄屋、築山、泉水などの広大な庭園を備えた御殿であった。

 明治時代以降、これらの御殿や櫓、門などはことごとく撤去され、陸軍の施設が整備された。一方で失われた建物を復興しようとする計画も進められ、昭和13年(1938年)には、今の巨大な大手門が新たに整備された。

明治31年(1898年)10月1日、姫路に第十師団創設。

昭和15年(1940年)7月10日、姫路に第五十四師団創設。

昭和15年(1940年)8月、第十師団は満州に駐留する。

昭和22年(1947年)、阿波野青畝は元第十師団の跡を訪れた。

涼しさや鳶笛ならふ師団址

『春の鳶 改訂版

 姫路市内は大阪のように爆撃に焼けて荒涼の景を呈し、白鷺城のみぽつりと残す状態であった。関西電力の社員たちとともに付近の句材をひろいに出掛けた。

 元第十師団の跡に立てば広い平地が漠々とつづいている。風の中からピーヨロピーヨロと鳶の特徴ある声が落ちてくる。ふりかえると城山を根城に何羽かの鳶が陣どり、中には羽づくろいする奴も見えた。

 私は不合格で兵役を免除された。だから練兵の経験が無い。銃をかついで歩かされたのは中学の機動演習しか無いのであるが、喨々と空にひびくラッパを聞いたときは粛然とした緊張感を喫し、歓呼の情熱が燃えてやまなかった。今はただラッパに代る鳶の声を耳にする。このような世の転変にでくわした私は、だだっ広い平和の地を眺めて妙な感傷のままになったのである。


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